世の中の流れを変えよう
元スズキ二輪車設計者 横内悦夫
(宮崎日日新聞連載 2008年5月24日 〜 2008年6月2日 掲載分) 8/9 |
〈71〉カタナ(上) 度肝を抜くデザイン
昭和五十五(一九八〇)年の夏、二輪設計部のもとに、フランスから一台のデザイン枯士モデルが届けられた。欄包(こんぽう)を開けてびっくり。中から出てきた奇抜なデザインに、私たちは度肝を抜かれた。言葉では表現できないショッキングなスタイルを目の前にして、「ウォーツ」と言ったまま」しばしの間、見入ってしまった。
劇的なカタナとの出合いだ。フランス・スズキが極秘で進めていて、それまでのGSX1100を一台提供し、ドイツのデザイナーのハンス・ムートに依頼してモデルを造ったという。彼の説明によると、イメージは日本刀だという。なかなかに日本通の氏は日本の武士道に興味を持ち、その象徴が刀であり、刀をオートバイに表現したのが
カタナだと話す。
さて、カタナとの初対面の興奮も落ち着いて、粘土モデルをよく見ると、その前衛的なデザインにだんだん引かれていった。それは、驚きから“これは素晴らしいぞ”という感動へと変わっていった。
昭和五十五年当時、スズキのイメージは地味だとの指摘があった。かつてないカタナを量産化することで、そんなイメージを脱皮できるのではないかと考え、カタナプロジェクトを実行に移すことになった。量産化に際しては社内的な手続きが必要である。審査に参加した全員が驚嘆の声を上げ、鈴木修社長(現会長)は「こんな仮面ライ
ダーのようなものを、本当にやるのか」と発言した。
そこで私たちは、世の中の反応を問うことにした。九月に開かれる西ドイツのケルンモーターショーへの出品だ。ショーが開幕するとカタナは大反響を呼び、幾重もの人垣ができた。急きょ、私たちはアンケートをとった。内容は簡単なもので、一点−五点法の用紙を百五十枚ほど用意した。お客さまに無作為に用紙を配り、丸印を付けてもらい、百枚ほど回収したところで整理に移った。すると、非常に興味深い結果が出た。五点と一点が圧倒的だ。私たちは一点を捨てることにした。すると五点の「非常に良い」だけが残った。これで決まった。
量産化に向けての検討に移ると、カタナの原型モデルに幾つかの問題が出た。スピードメーターの位置が高くて前が見えにくい…等々。しかし、双方プライドがあって、デザイナーと設計者が自分たちの主張を譲ろうとしない。設計者とデザイナーの間でよく起きる葛藤(かっとう)だ。そこで私はムートに取引を申し出た。「私たち設計者はあなたのデザインの基本を害さない。その代わりあなたもオートバイの走行機能を壊さないでほしい」。するとムートも快諾し、その後の検討がスムーズにいったのである。
[写真:オートバイ史上に輝く傑作デザインの「カタナ」。21世紀の今日も眺めるたびに興奮を覚える]
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〈72〉カタナ(下) 高い人気で会も発足
ムートとの取引の前提条件は、将来、買ってくださるであろうお客さまにとっての利便性だった。そのためには、デザイナーも設計者も妥協すべきところはしてもらった。
カタナほどの素晴らしいスタイリングで世に出すなら、エンジン性能ももっと良くしよう、車体の操縦安定性もより向上させなければならないと考えた。最高速度は優に時速二百kmを超えるため、ライダーは強烈な風圧を受けることになる。そこで、デザインの基本を害さない範囲で透明の小さなスクリーン(防風板)をヘッドランプ上部に付けることにした。風洞実験を何度も行い必要最小限の大きさにしたのは言うまでもない。
粘土モデルが到着して四カ月後の五十五年十二月末に試作車が出来上がり、エンジンや前後クッションの調整を終えたところで私も試乗した。風の静かなよく晴れた日の竜洋テストコースで、私は徐々にカタナのスピードを上げていった。従来のGSX1100よりも太いトルク
(回転力)になっている。
コースの最終コーナーを二速ギアで立ち上がると、二kmもある長い直線路に入る。私はギアをシフトアップすると同時にアクセルを全開にした。スピードはぐんぐん上がっていく。速度計の針が二百kmを少し上回ったところで右手を緩め、そのままのスピードを保った。
タイヤはピタリと路面に張り付き、横揺れもまったくない。スクリーンの中に伏せると、風圧をほとんど感じない。何とうれしい世界か。無意識のうちにヘルメットの中で顔がほころんできた。まさしく“二百kmの幸せだ!”
私は、一周六・五kmを十周余り走った。カタナという素晴らしいスタイリングにふさわしいマシンに仕上がったことに満足し、これならお客さまに満足してもらえるぞと確信した。
ケルンモーターショーの直後、日本の専門誌でも衝撃的な見出しで大きく報じられた。読者の反応も大きかったため、国内の販売店からも“日本ではいつ販売するのか”との問い合わせがメーカーに殺到した。カタナは、日本のほかヨーロッパでもヒットした。
カタナは今も高い人気を呼んでいる。日本にカタナ会が二十数年前に発足し、千人近い会員がいて今も交流が続いている。私も一一〇〇ccカタナを所有しており、会員の一人でもある。昨年十月には、竜洋テストコースで全国ミーティングを開き、北海道・旭川から
九州は長崎、熊本からも参加した。宮崎県にも会員がいる。会員はヨーロッパやアメリカにもおり、二〇一一年には、オーストラリアで国際カタナ会を催すというからすごい。
[写真:昨年のカタナ会竜洋ミーティングにおけるラストランの模様]
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〈73〉HY戦争 二輪増産で赤字転落
昭和五十五(一九八〇)年ごろになって、国内二輪車市場のシェア争いが激化した。今はもう、過去の言葉となったHY戦争である。シェアトップのホンダと二位のヤマハの争いを指してそう呼んだのだ。
五十二年にヤマハが五〇ccパッソルを発売、女優・八千草薫の“優しいから好き”というCMでヒットさせた。このモデルが現在の小型スクーターの形を作ったと言ってもよい。さらに、ヤマハは五十三年に二段変速のパッソーラで追い打ちをかけた。するとホンダは、五十五年に自動変速のタクトを出して対抗。これもよく売れた。こうして、いや、これだけではないが、とにかく両社の出荷台数は上昇していった。
このころヤマハが、“ホンダを抜いてシェア一位になる”と宣言した。ある人は、これを“ライオンのしっぽを踏んだ”と表現したが、その通り、ホンダは怒り、HY戦争が始まった。これは、五十六、五十七年になるといっそう激しくなった。
HY戦争とは言っても、二社だけの争いでなく、二輪車メーカーとしてのスズキも当然その渦中にあった。五〇ccのスクーターを中心に増産に次ぐ増産が続き、ついに年間総生産台数は、日本の四社だけでも三百二十万台を大きく超えた。これはわが国の二輪車総需要の二倍ほどで、倉庫という倉庫は在庫の山となり、市場は三台十万円などという超安売り合戦へと突き進んだ。このような醜い商戦を“仁義なき戦い”と呼ぶ人もいた。
スズキもシェアを守るために増産を続けた。国内二輪営業部は、次々に新商品開発を要求してくる。私たち二輪設計部も可能な限りそれに応じた。スタイルや車体色を変え、新しいエンジン開発にも取り組んだ。工場は増産体制を取り、フル稼働となる。部品の80%は外注(下請け)先から納入されていたので、彼らも人探しを含め多忙を
極めた。
市場での販売量よりも生産量の方が多いので、当然在庫量も増える一方だ。安売りのため売り上げ台数は伸びても利益は減り、二輪事業部自体は赤字に転落したのである。
スズキ二輪事業部の赤字は百億円近くにもなり、このままでは二輪から撤退せざるを得ないという厳しい提案が社内から出された。軽四輪人気車、アルトを中心とした四輪部門にメシを食わせてもらっている二輪は不要だというのだ。
これは私にとって非常に不愉快なことだった。GPレースで世界チャンピオンを取ったプライドもある。そこで、「自分たちのメシは自分たちで稼ぎます」と社内で宣言した。
[写真:二輪車市場がどんなに厳しいときでも、喜土山を見れば心が和んだ]
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〈74〉三ない主義 未来の客の心つかむ
早速、二輪事業部門の関係者が集まった。こうして得られた結論は“大ヒットする商品を造ろう。それも三年続けて”であった。三年続ければ黒字にもできるだろうし、世間のスズキを見る目もきっと変わる。昭和五十七(一九八二)年になってすぐのことだった。
そこで私はホンダとヤマハの商品計画を調べることにした。一週間ほどで調査会社から届いた報告書によると、ホンダはヤマハを、ヤマハはホンダを強く意識して商品計画をしているという。上位二強が互いに相手メーカーにない商品を、各排気量別、商品分類別に用意し、相手にあって自社にない商品があれば、これを必ず造る。一週間に一機種が市場に出される勢いで、そのために大幅な技術者の増員を行うという。お客さま無視の商品計画である。
私はこれを見て、ホンダとヤマハに負けないと思った。そしてまず、この二社の動きと新商品を無視することにした。そしてスズキの方針を“未来のお客さまと仲良くしよう”にした。未来のお客さまにマッチしたオートバイを造れば、必ず買ってもらえるにちがいないからだ。“レースは愛である”の応用だ。
GPマシン造りは、ライダーと設計者の一対一の開発だ。商品開発にもこのコンセプトは当てはまる。量産車の場合、お客さまの数は多いが、買ってくださったお客さまにとってその商品は百パーセントであり、そうなると設計者とお客さまとの関係は一対一になる。だから、買ってくださるお客さま一人一人を愛し、その夢をかなえてあげればヒットすると私は考えた。
商品を全部そろえるやり方をやめ、捨てるべきは思い切って捨てる。その代わり、重点志向で企画した商品は絶対にヒットさせる。つまり、“一発必中狙い”の商品企画と開発を行う方針とした。企画部門や営業部門も同調してくれたので、社内的なコンセンサスは容易に得られた。
さらに考えて、未来のお客さまの心をとらえる考え方の中心に“三ない主義”を置くことにした。三ないとは、(1)前例がない(2)他社のまねをしない(3)常識的でない−の三つを意味する。
昭和五十五年代になって、国内の大型二輪市場は、二五〇ccクラスに最も需要があった。税制面で有利だし、車検もない。車格や価格も手ごろで、エンジン性能も走りを楽しむのに十分だったからだろう。
当時、スズキにはRG250があったが、昭和五十五年になるとヤマハから水冷エンジンを持つRZ250が出され、続いてホンダから四サイクルV型エンジンのVT250と、立て続けにいい商品が出て、スズキの影は薄くなった。
[写真:妻の趣味は書。師範の資格を持ち、2006年国際書展で特選となった。
妻はどんな時でも私を支えてくれた]
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〈75〉レーサーレブリカ 観客の夢実現させる
昭和五十七(一九八二)年ごろ、どこへ行ってもヤマハRZやホンダVTを見掛けるようになった。二五〇ccスポーツ車クラスの需要が膨らんだ証拠でもある。当然のように私たちは、一発必中商品造りの最初の狙いを、二五〇ccクラスに定めることにした。
昭和五十七年当初、当時の運輸省(現国土交遷省〕が、オートバイのカウリング(風よけ)やウインドシールドを市販車に取り付けることを認可するとの情報を得ると、私たちはすくにこれに飛び付いた。カウリングの付いたロードレーサータイプの公道用バイクを造れるからだ。前例のないロードレーサータイプなら、すでに掲げた“三ない主義”にもぴったりとはまるではないか。
当時は、ケニー・ロバーツを筆頭に、スーパースターのライダーたちが大勢いた。GPレースになると、どこのサーキットも十万人前後の大観衆で埋め尽くされ、みんなが興奮する。
しかし、観客はGPレース用マシンを見ることはできても、触ることはできない。ましてや、乗ることなどまったく不可能だ。彼らにとって、それはいつまでも夢であり続ける。だったらその夢を実現させてあげよう。GPマシンとまったく同じ形をしたレーサーレプリカ版を出せばいい。
幸いにして私たちは、GPロードレース界の世界チャンピオンバイクRGΓ(ガンマ)を持っているのだから。カウリングを装着したような公道用のスーパースポーツバイクなんて、まったく前例がない。だから、必ずヒットするはずだ。
そんな折、商品企画会議が開かれた。参加者の一人が機種記号を、
“RG250ガンマにしよう”との発言をした。ガンマ(Γ)という発言で、会議の雰囲気が一変した。前年の世界ロードレース五〇〇ccクラスでスズキは世界チャンピオンを取り、六年連続のメーカーチャンピオン、V6も達成した。そのチャンピオンマシンがRGΓだった。Γはギリシャ語のゲライロウ頭文字で栄光を意味する。
新しい二五〇ccモデルに、Γの称号を付けるというのだ。私たち開発者の脳裏に、GPレーサーRGΓと市販革RG250Γのイメージがオーバーラップして現れた。この会議こそが、GPレーサーRGΓにヘッドランプをはじめとする保安部品を付けただけの市販革、“RG250Γ”のアイデアが誕生した瞬間だった。
設計室に戻った私たち設計者は、RG250Γに関しての話し合いを始めた。そんな中で、ガンマと名付けるなら、フレームはアルミにすべきだというとっびな意見が出た。前例のないアルミフレームをやろうというのだ。
[写真:1983年3月1日に発売されたRG250Γ。市販状態ではアンダーカウルはないが装着は可能だ]
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〈76〉アルミフレーム 前例ない案で軽量化
新型RG250にΓ(ガンマ)の称号を与えることが決まった。設計室に戻った私たち設計者は、RG250Γに関しての話し合いを始めた。すると、若手の設計者から、「ガンマの称号を与えるなら、フレームはアルミにすべきだ」という意見が出た。
昭和五十六(一九八一)年、五十七(一九八二)年にRGΓが世界チャンピオンを決めた時の車体フレームの材料がアルミだったことから、市販車のRG250Γもアルミフレームにしよう、という提案だった。
それまで、二輪車の車体フレームの材料は、鋼鉄パイプ(鋼管)で造るのが常識だった。これを軽量化するために、アルミにしようという、当時としてはまったくの常識はずれの握案だった。「前例のない」アルミフレームは、二輪事業生き残りをかける“三ない主義”の方針にぴったりあてはまる。
しばらくすると、設計課長と係長が硬い表情で私のところにやって来た。「アルミフレームは駄目だ。やめないとお前たちをクビにする」と設計部長から指示があったという。前例がないし、量産車にアルミフレームを採用するのは非常識極まりない、というのが理由だ。
次長の立場にあった私は非常に困った。勤め人である以上、上司の命令には従わねばならない。しかし、アルミフレームにしてはならないという命令に、私はどうしても従えなかった。市場のお客さまたちは、アルミ化を望んでいるにちがいないという思いが強くあったからだ。
問題はどんな場合でも出てくる。その解決をどちらの都合に合わせるかで結果は大きく変わる。この場合、お客さまにとっては、アルミフレームの方が都合がいい。しかしフレームを造る工場にとっては、鋼鉄パイプの方が都合がいい。
お客さまの都合に合わせるか、それとも工場の都合に合わせるか。当然、買ってくれる人たちの都合に合わせるべきだと私は考えた。製造上の問題解決には設計技術陣も協力しよう。Γの称号を付けるからには、アルミフレームを抜きにすべきではない。
私は、技術担当常務のところに相談に行った。「世界GPレースでチャンピオンを取ったことに世間は注目しています。アルミフレームはGPレースで得た技術であり、社内には反対の意見もあります。しかし、RG250Γをアルミフレームにすることにより、企業イメージを上げることができます。だからぜひアルミでやらせてください」と頼んだ。
ややあって、「アルミで図面を出せばよい」と返事がきた。非常に重要な決定なので、鈴木修社長(当時)の了解は得られているにちがいないと思った。
[写真:前例のないアルミフレームに二輪事業の生き残りをかけた]
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〈77〉RG250Γ 予想上回る大ヒット
ロードレース世界GP五〇〇ccクラスで六年連続メーカーチャンピオンを獲得した技術のすべてを、RG250Γ(ガンマ)に投入することにした。
以前は、世界GPレースで得た技術は生産車には応用できない、というのが一般的であった
が、決してそんなことはない。
“走る、止まる、曲がる”の基本機能が最も卓越しているのは、GPレーシングマシンである。安全性においても、最も優れている。安全だから、信頼性があるから、GPレーサーは速く走れるのだ。これは四輪車も同じだ。
私は、レースグループの皆によく話した。「GPレースに参加する以上、世界最高のマシンを開発してレースに勝つのが私たちの仕事だ。しかし、その技術を生産車に導入して、初めて自分たちの給料がもらえると思ってほしい」と。
レースで得た技術をどんどん生産車に使って商品のレベルをアップさせ、市場のお客さまに満足を与え、喜んでもらう。その結果、企業に利益を与えるのが、本当の意味のレースの目的だ。企業にとって、レースは手段であり目的ではない。目的は、あくまで企業に利益を与えることなのだ。
一発必中狙いのRG250Γの開発が、実行に移されることになった。昭和五十七(一九八二)年の春、設計目標値の設定に入る。エンジン最高出力は四五馬力、車体はRGΓ譲りのアルミ角パイプフレーム、スタイルはGPレーサー然としたカウリング(風防)を付ける。車体重量は平均よりも20%軽くする。いずれも前例はなく、まねもせず、常識的でないことばかりである。
しかし、販売価格は、利益を最低限に抑えても四十六万円と、高くなってしまった。それまでの二五〇ccクラスは三十九万円はあって
も、四十万円を超えるものはなかった。販売価格四十六万円は四〇〇ccクラスの価格だ。
ここで私たちは、開き直りをした。それは、これだけの装備と性能だ。四十六万円の価値を認めてくださるお客さま、欲しいと思うお客さまだけに買ってもらえればいいと、考えたのである。
昭和五十八年三月に生産開始されたRG250Γは、発売と同時に大ヒット商品となった。市場の反応は予想をはるかに上回るものだった。今では当たり前となったが、レーシーな(レースに適した)スタイル、アルミフレーム、四五馬力エンジン…これらは、どれも世界初のものばかりだった。
一発必中狙いの“三ない主義”は成功した。スズキがHY戦争の泥沼から抜け出す第一歩となったのである。これで商品開発に勢いがついた。
[写真:中央に回転計、右に水温計、左を速度とするレースに適したメーター]
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〈78〉4サイクルエンジン 新技術では設計せず
RG250Γ(ガンマ)は、HY戦争の泥沼から抜け出す第一歩となった。私たちには、次の商品開発への勢いがついた。昭和四十九(一九七四)年、レースの仕事を始めて間もないころ、“流れを変えよう”と決心した時のことを思い出した。
昭和五十八年になったころ、ホンダがエンジン最高馬力の自主規制をすると発表した。高出力競争に歯止めをかけないと、安全上好ましくないというのがその趣旨であった。ホンダの案を排気量ごとに見ても、それぞれの値は決して低くはなかった。オートバイメーカーの野放しの馬力競争は、ユーザーにもメーカーの将来にとってもよいことではないと考え、スズキはホンダの意見に同調した。
ちょうどそのころ、一発必中狙い商品の第二弾として、GSX-R400の企画がなされていた。RG250Γがスプリントレーサーなら、GSX-R400は耐久レーサーをイメージしたもので、その原型は鈴鹿八時間耐久レース優勝車のスズキGS1000Rとすることにした。
当然、GSX-R400は走りを追求したモデルだが、エンジンの最高出力は四メーカーの自主規制による五九馬力を上限とせざるを得ない。四〇〇cc車は、四社とも五九馬力に各メーカーがそろってしまう。そうなると、エンジン性能ではライバルに差をつけられない。
しかし差別化の方法は難しくない。軽量化によって“はしり”の面で差をつければいいのだ。軽ければ、走る、止まる、曲がるといった三つの基本機能すべてが有利となる。さらに、同じ走りをするな
ら、燃料消費も少なくて済む。軽い分だけ一台に使う材料費も掛からなくなり、コストも安くなる。
当時、スズキGSX400FWは百七十八kgあった。新設計のGSX-R400は、それよりも二十二kg軽くした百五十六kgを目標値とした。プロジェクトチームに、半分命令の形で私はこの数字を提示した。
昭和五十一年の終わりごろ、スズキは日本オートバイ生産四社中、4サイクルエンジンを手掛ける最後のメーカーとしてGS750/400の生産を開始した。私たち設計陣にとって4サイクルは初経験だったため、特に新技術は投入せず“そのころの技術”で手堅く設計した。
“そのころの技術”とは、私が大学時代の二十数年前に教わったそのままの技術レベルのことだ。それは、二輪車だけでなく、その時代の四輪車にも共通した設計法だった。昭和五十二年ごろ、「有限要素法」というコンピューターによる設計法が確立された。この設計法を使うと、無駄なぜい肉がいっぱい見つかる。だから二十二kg、12%の軽量化は難しくはない。
[写真:RG250Γに続いて日本国内で大ヒットしたGSX-Rのエンジン]
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〈79〉若い設計者たち 厳しい軽量化を実現
昭和五十七(一九八二)年、それまでの古い設計法での設計内容をコンピューターによる解析法でチェックすると、無駄な部分が多く見つかる。部品が大きすぎたり、無駄な肉が付いていたりして、全体として重量を重くしている。
GSX-R400のコンロッド(ピストンと一緒に上下運動する)の軽量化に際し、コンピューター解析をしてアンバランスをなくしてみると写真のようになる。左端が従来品、右から二番目が軽量化晶で、何と34.9%も軽くすることができた。このような考え方で全体を新設計すれば、二十二kg軽減して百五十六kgの重量を実現することは可能と考えたのである。
GSX-R400の車両重量目標値を百五十六kgとした時点から、若い設計者たちの苦闘が始まった。当時とすればあまりにも厳しい減量値だったからだ。千点を超すすべての部品別に減量値を割り付けられた設計者たちは、最初は大いに戸惑ったようだ。
しかし彼らは、機能とコストのことも考慮して、短斯間のうちに設計を終えた。三カ月ほど過ぎて試作車が組み立てられた。早速、試作車をはかりに載せた。何と、はかりの針は百五十六kgをわずかに割った。「それは無理です」と彼らが言った百五十六kgよりも軽くできたのである。
百五十六kg達成の設計作業は、すべて若い設計者たちによってなされた。私は厳しいといわれる目標値を示し、設計にコンピューター解析による計算技法を取り入れ、若い技術者たちにそれが可能な環境をつくってあげただけだ。限界値はどこにあるかとの判断に彼らが迷ったときにだけ、私が決断したが、百五十六kgを実現させたのは若い設計者たちだ。この時、私はつくづく思った。“このごろの若い者はよくやるよ”と。
軽量、高剛性のアルミフレーム、水冷四気簡四〇〇cc最高出力五十九馬力、乾燥重量百五十六kgのGSX-R400は五十九年三月に発売された。ヘッドライト二個、二十四時間耐久レーサーイメージのスタイルを持つこのモデルは、RG250Γ(ガンマ)に続いて国内で大ヒットした。
ヒットする要因は数多くあったが、何といっても車体重量の軽さからくるメリットは大きかった。ライバルメーカーも含め、四社のこのクラスの最大出力は五十九馬力だ。そんな中で、GSX-R400は、軽いがゆえにその運動能力においてほかを圧倒した。軽量化でまた二輪車業界の流れを変えることができて、素直にうれしかった。
[写真:従来晶のコンロッド(A)を34.9%軽量化したGSX-R用生産品(C)]
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〈80〉海外向け商品開発 馬力と車重が焦点に
昭和五十八(一九八三)年になると、HY戦争も終局を迎えた。スズキは昭和五十八年のRG250Γ(ガンマ)、昭和五十九年のGSX-R400のヒットで何とかしのぐことができ、メーカーとしてのイメージも少し上がってきたと感じるようになった。
五十九年一月になって、私の仕事は国内重点から海外向けの商品開発に重きが置かれることになった。北米やヨーロッパ市場で、七五〇ccクラス以上の大型二輪車が後れを取っていたからである。
そこで私は、当時の二輪輸出担当部門と次のような約束をした。“二輪車で大ヒットする商品をアメリカ向けに一つ、ヨーロッパ向けに一つ、四輪バギー車に一つ、合計三つのヒット商品を必ず開発する”だった。特に、ヨーロッパのディーラーからは、七五〇ccクラスのスーパースポーツバイクの要求が強かった。同年一月、まず私はそれに着手した。
開発に入る前にヨーロッパの状況を調べてみると、次の三点が重要であることがつかめた。(1)ヨーロッパ市場での七五〇ccクラスの出力は八十五−九十五馬力である(2)二十四時間耐久レースなどは七五〇ccクラスが主力である(3)安全上、フランスやドイツは最高出力上限を百馬力としている。
昭和五十九年ごろ、この三つのポイントのすべてで、ほかを圧倒する七五〇ccのバイクはどのメーカーにもなかった。私は、それらをしのぐ七五〇ccのスポーツバイクを開発すれば、ヒット間違いなしとの確信を得た。そこで新七五〇ccの開発目標として、最高出力は規制値いっぱいの百馬力。二十四時間耐久レースでよい成績を上げるために、目標車両重量を百七十六kgとする、といった二つを決めた。
百馬力で百七十六`というだけでもすごい。当然、前例のない目標値である。性能アップで出力が一・五倍程度にできるようにしておけば、耐久レースや短距離レースに出場する多くのファンにも買ってもらえるのは間違いない。
百馬力、百七十六kgレーサーレプリカであるだけでなく、耐久レース用マシンに成長する可能性をも持ったGSX-R750なのだから、開発コンセプト(発想)も格好よくなければ駄目だ。
そこで“サーキットから出てサーキットに戻る”(Born in The Circuit.Back to the Circuit)とした。これ以上素晴らしい商品コンセプトはないし、高い目標値にも納得がいくというものだ。
[写真:RG250Γ、GSX-R(400)に続くスズキ・レーサーレプリカの3作目に至り、爆発的な人気を得た85年型GSX-R750]
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