世の中の流れを変えよう
元スズキ二輪車設計者 横内悦夫
(宮崎日日新聞連載 2008年6月3日 〜 2008年6月13日 掲載分) 8/9 |
〈81〉部品分解 ペンキ塗り意識改革
百七十六kgという目標車両重量はどこから出てきたのか。当時の七五〇ccバイクの平均重量は二百二十kgだった。それを私たちは20%、つまり四十四kg軽くしようと考えた。四十四kg軽量化して百七十六kgにすることを目標とした。
何かを改善しようとするとき、3%とか5%改善ということが多い。悪くはないが、その程度の改善幅では、どうしても従来の延長でしか物事を考えないのが一般的だ。そこで、20%とか30%を改善目標にすると、今までの常識がまったく通用しない。よく言われる発想の転換に迫られる。
そこで、私は新型GSX-R750の軽量化目標を思い切ってマイナス20%にした。四十四kgといえば、大人一人の体重分だ。減量が実現すれば、その効果は絶大である。
まず始めたのが、設計者たちの意職改革だ。設計室のフロアを広く片付けてダンボールを敷き詰め、その上に前年型の七五〇ccバイク一台を持って来て、すべての部品を分解して並べた。育ペンキと赤ペンキを買ってきて、小筆も二十本ほどそろえた。
分解された前型のバイクの開発時の記録を全部集め、それを見ながら、開発中に亀裂、破損、曲がりが発生した個所には赤ペンキを塗った。何もなかった個所には青ペンキを塗った。作業を始めてしばらくの間は、バカバカしいと思ったのだろうか、設計者の動きが遅い。それでも、部長の私がペンキ塗りをするから、彼らもペンキ塗りをやった。
しばらくすると、設計者たちの目の色が変わってきた。ペンキを塗
ると同時に、はかりで部品重量も記録させた。単位はキロでなくグラムを使った。すると、ペンキを塗りながら、軽量化へのアイデアを考えるようになった。そのために目の色が変わったのだ。軽量化への意
識改革は進んでいる、と思った。
全部の部品へのペンキ塗りが終わって、皆でフロアを眺めた。するとどうだ、トラブルが発生して塗られた赤ペンキの面積は3%もない。後は全部青ペンキではないか。私は何も言わずその場を去った。青ペンキの部分の面積は95%を超え、これは過剰品質であり、軽量化とコスト低減を教える宝の山だ。設計者たちはすでにそのことに気
付いていた。
最も悩んだのがエンジンの軽量化だ。オーバーヒートを防ぐためエンジンは常時冷却されている。冷却の仕方には空冷と水冷がある。ラジエーターに水を補給するのが水冷エンジンであり、水冷式は冷却性にはよいが重たい。空冷式は軽いが冷却性能が悪い。水冷も空冷も駄目。何かいい方法はないものか…。
[写真:フルカウルに隠されてしまうのが本当に惜しい美しいフィン。当時のスズキはエンジンの外観にも技術者が責任を負っていた]
|
〈82〉婆ちゃんの教え 熱境界層を破壊する
エンジンの軽量化で最初に出た問題が、エンジンの冷却方式だった。エンジンの冷却方式には、空冷と水冷の二選りしかない。空冷式だと軽量化は容易だが、百馬力エンジンには冷却不足だ。水冷式にすれば、冷却の問題は解決する。しかし、重量が目標値をオーバーする。あちら立てればこちらが立たず、である。二者択一でなく、何とか“第三の方法”はないものか、と悩んだ。
そんなころ、ふとしたことから第二次世界大戦で日本が誇ったゼロ戦を負かしたアメリカの戦闘機P51ムスタングが社内で話題になった。エンジンの冷却方式に話を向けると、誰かが「あれは液冷だよ」と言った。
私は「液冷だよ」の“液”の一語に気持ちを奪われた。そして、こう考えた。水冷式の水は液の中の一つにしかすぎない。水以外の液はないものかと。すると、エンジンには潤滑用のオイルがあるではないか。これも“液”だ。このようにオイルを使った“液冷エンジン”はできないものか、と発展していったのである。
ならば、シリンダーヘッドの燃焼室の上部に、冷えたオイルを思いっきりぶっかけてやればよいではないか。私たちはそれまであったGSX750Eの空冷式シリンダーヘッドを洗車場に持ち込んで、水道水を思いっきりぶっかけてみた。すると、“うん、これはよく冷えそうだ”と直感した。
その時、私は一瞬、山路の婆(ばあ)ちゃんの教えを思い出した。この教えでいけるのではないかと思ったのである。
前にも書いたが、「熱境界層を破壊すると熱はよく伝わる」というのを教えてくれたのが、山路の婆ちゃんである。五右衛門風呂を沸かすとき、竹の棒で二、三度かき回すと早く沸くというのである。
母方の祖母、山路セイ(故人)は、とても優しい婆ちゃんだった。私が遊びに行くと、よくあられを炒(い)ってくれた。あられは特大の茶筒に入れられ、テーブルの上に置いてあった。開けると、砂糖をまぶしたあられはいい香りがし、歯ごたえがよくて本当においしかっ
た。
そんな婆ちゃんの教えを思い出すと、ますます気合が入ってきた。水道水の量を変えたり、向きを変えたり、ホースをつまんで勢いを変える。三人はどのスタッフとやったが、皆夢中でやったせいか、下半身がずぶぬれになってしまったのにも気付かずにやってしまった。
浜松でも一月は寒い。私たちは生活協同組合の売店へと走り、作業ズボンなど新しいのを買った。
[写真:ホースを持ち、カバーを外したシリンダーヘッドの上面に水をかけているのが私(右)だ]
|
〈83〉壊れるエンジン 試作で限界値求める
エンジン内にたくさん入っている潤滑用のオイルを冷却に使えないかと、シリンダーヘッドに水をかける実験をやった。これはうまくいったが、私たちは下半鼻ずぶぬれになった。作業をしている時は夢中になっていて何ともなかったが、終わるととても寒かった。私たちはこれを“真冬の水遊び”と呼んだ。“これはいけそうだ”という確信のようなものがわいてきた。
冷却性能に関する熱の授受計算をしたが、その結果は水冷式よりも若干劣ると出た。そこで、ホースで水道水をぶっかける時のように、大量のオイルをジェット噴射してやれば解決できるのではないか、と思った。
これは、「熱境界層を破壊すると熱がよく伝わる」という山路の婆(ばあ)ちゃんの教えがヒントである。熱くなったエンジンにオイルクーラーで冷やしたオイルを噴射してやると、エンジンがよく冷やされるのだ。私たちはこれを、「油冷エンジン」と名付けた。
油冷エンジン重量の目標値を七十kg下回る値とした。七五〇ccでありながら、四〇〇cc並みの値である。すると、「そんな数字じゃ、エンジンが壊れますよ」と、ある設計者が言った。私はすぐに言葉を返した。「じゃあ、壊れるエンジンを造ろうじゃないか」
二十数年前の設計技術で造られたそれまでのエンジンには、無駄がいっぱいあるはずだ。それを探そう。私たちは、部品に赤ペンキと青ペンキを塗り、青ペンキの部分は無駄であり、重たすぎると決め付けた。無駄を取り除けば、材料におけるコスト低減にもなる。すると、彼らの間から質問が出た。
「無駄のない限界に挑戦せよと言われますが、壊れるか、壊れないかの限界がどこにあるのか、それをどうやって知るのでしょうか」。私は答えた。「限界に挑戦する時に、限界が分からなければ、限界を通り過ぎればよい。だからGSX-R750の試作車は壊れる設計をしよう」との方針を打ち出した。
試作段階では壊れてもよいのだ。それによって“限界値”が求められるので、技術の進歩に大いに役立つ(壊れて困るのは設計者だ)。軽量化は、それぞれに割り付けられた目標値と強度の両方をも満足させなければならないので、設計者は苦しむ。彼らは、コンピューター解析を駆使して部品の設計をした。応力値は限界値の少し手前の設計
をしたようだ。
二カ月余りして」最初の試作が完成した。重要事項の新エンジンは、潤滑用のエンジンオイルが内部の全体に予定通り行き渡っているのを確認すると、いきなり耐久試験に移された。
[写真:GSX-R750のシリンダーヘッド]
|
〈84〉油冷エンジン 運輸省の認定を得る
壊れるかもしれないエンジンは実験室でエンジン全開、連続百時間の耐久試験を始めた。それから数日後、担当係長が少しうつむき加減で私のデスクにやって来た。「すみません。エンジンは壊れませんでした」と、謝るように耐久試験の結果を報告してきた。“壊れるエンジンを設計しなさい”と言ったのに、どこも壊れなかったためである。
私はしかっていいのか、慰めたほうがいいのか一瞬戸惑ったが、「良かったね」と笑顔で応じた。すると、担当係長は戸惑ったような顔をしたが、すぐに笑顔になった。もし、耐久試験中にエンジンが壊れると、次に待っている仕事は、トラブル対策との戦いである。私も担当係長も、壊れなくて良かったと互いに安堵(あんど)したのである。
開発は順調に進んだが、市販車とするためには運輸省(現在の国土交通省)の認定を得なければならない。書類一式の中に、エンジン冷却方式を「油冷」と書いて申請した。すると認定官は、「エンジンの冷却方式は、水冷と空冷しかない」と言って油冷方式を認めようとしない。
私たちはいったん本社に戻り、作戦を考えた。それは、油冷方式の現物を見せて説得しようというものだ。シリンダーヘッドをカットして、透明のアクリル坂で中が見えるようにしたものを造った。それにホースを持って、再び運輸省へ行った。
水場があったので、そこへ運輪省の認定官に来てもらい、シリンダーヘッドのアクリル模型にホースをつないだ。水道水を流す時、あえて私は、認定官に蛇口を開けさせた。すると、水は勢いよく噴出してシリンダーヘッドの上部全体にプアーツとかかった。人を説得する時、相手に何か仕事をさせると効果があるものだ。認定官は、「おう
っ、これはよく冷えそうだ」と感嘆した。冷却計算書に、オイルで冷やす割合は61%、後は空冷です、と説明した。
私たちは、認定官の「油冷エンジンと称することを認める」とのうれしい返事をもらった。そのことが官報にも載ったので、GSX-R750を「油冷エンジン」として、世界中に堂々と宣伝できることになったのである。
昭和五十九(一九八四)年九月、西ドイツのケルンモーターショーに出品した。百馬力と超軽量、それに油冷エンジンが話題となって、展示車の周りは幾重もの人垣ができた。ケルンショーの人気、二輪専門誌の大報道、それにル・マン二十四時間耐久レースのワン・ツーフィニッシュで、GSX-R人気に火が付いた。工場はフル操業するが追い付かない。これで、二輪事業部赤字解消のめどが立った。
[写真:1985年4月のル・マン24時間耐久レースで優勝。大観衆の見守る中、ワン・ツーフィニッシュ]
|
〈85〉アメリカンバイク 基本理解のため渡米
昭和五十九(一九八四)年一月、油冷エンジンの開発に着手したころ、デザイン課長がモデル置き場に案内してくれた。
その中の一台に私は目が留まった。それは今まで見たこともないアメリカンタイブのコンセプトモデルだった。ガソリンタンクやシート、車体のサイドカバーを含めた全体の造形美が何とも素晴らしい。よく聞いてみると、生産化はしないことに決まったという。こんないいモデルを捨てるなど、もったいない。私はこのモデルを商品として開発すペく、商品企画部に行き説得をした。
スタイルの基本は決まったものの、私たちの頭の中に“アメリカンバイクとは何なのか”との素直な疑問がわき上がった。「それはハーレーのようなバイクでしょ」とさまざまな意見が出たが、結局“アメリカンバイクの基本”が分からない。
そこで私は、アメリカに行って調べてみることにして、昭和五十九年三月上旬、油冷エンジンの設計方針を出した後に渡米した。ロサンゼルスのUSスズキに行き、コンセプトモデルを手作りした研究開発(R&D)の連中と会い、彼らのアメリカンバイクヘの思い入れを聞いた。「ハーレーとは遵う新しいタイプのアメリカンにしたい」と言う。それではと「新しいアメリカンバイクとは何なの」と尋ねると、抽象的な言葉ばかり返ってきて、さっぱり理解できない。スポーツバ
イクならまだしも、出力と重量といった数字で表現できるが、アメリカンバイクは何ひとつ数字では表現できないものだということが分かっただけであった。
こうなったら、本場の人たちの声を聞くしかない。ロサンゼルス市内のハーレーを売っている店に行って聞いても、「Harley is Harley」などと言うばかりで、どうにも要領を得ない。ハーレーはアメリカンバイクの代表ではあっても、それがすべてではないはずだ。もっと違ったアメリカンバイクを作りたいというのが、この時の私たちの狙いであった。
アメリカンバイクの基本を理解しなければと思ったが、正直なところ、ここまでの調査では断片的にしか分からなかった。次に私たちは、東部へ行ってみようと考え、大陸を横断してニューヨークに飛んだ。二、三の販売店を見たり、ユーザーとも面談したりしたが要領を得ない。
アメリカンバイクの全体像がつかめないまま、カナダスズキに電話してみた。すると、「いい店があるので、そこへ行きましょう」とのこと。すぐさま私たちは、カナダのモントリオールへと足を延ばした。
[写真:日本でも1985年型としてVS750イントルーダは発売された]
|
〈86〉イントルーダ 米国出荷で好評博す
カナダスズキの駐在員に案内されて、モントリオールにあったハーレーの店を訪れた。愛想よく迎えてくれたのは、セールスマネジャーのバードードさんだった。彼は私たちが店に着くなり、身ぶり手ぶりも入れて自信満々に話し始めた。誰が、いつ、どこで、なぜバイクを使うのか、そのためにバイクはどうあらねばならないのかを、一時間以上もかけてまくし立ててくれた。
まず、「誰が乗るのか」 「ブルーカラーが多い」 「どこで乗るのか」 「主体はビーチや街乗りだ」 「なぜ乗るのか」 「目立ちたいのとリラックスするためだ」
「では、それに求められるバイクの基本は何か」 「(1)色気のある形(Sexy Form)(2)力強い青(Strong Sound)(3)特注品の感覚(Custom
Touch)、の三つが大切だ」と言う。
アメリカンバイクに乗る目的では「目立ちたい」 「リラックスしたい」 「ガールハントしたい」の三つが大きいと言う。一時間以上もの間、バードードさんの話は止まらない。私はすべての言葉を聞き漏らさなかった。整理すると、言葉の数は四十二あった。それらの言葉を層別分類するときれいなコセプトチャート(ファミリーツリー)ができた。このチャートにはハーレーや、私たちが完成させる新しいアメリカンバイクも含まれている。私たちはこのチャートを憲法にして開発を進めることにした。
この新しいアメリカンバイクは、VS750イントルーダと命名された。設計・レイアウトの中で最も大切なのが、三Lだった。つまり、
Low(低く)、Long(長く)、Lean(細く)である。
バードードさんは、まだ成熟していない少女のようなバイクにしようというのである。細いところは細く、出るべきところはちゃんと出ているようなバイクにするとよいという。
昭和六十一(一九八六)年の年が明けて、イントルーダ発表会を行った。いずれのライダーも新鮮味のあるアメリカンバイクだと評価は高かった。同年春からアメリカ向けの出荷が始まり、好評を博した。続いて、最大排気量のVS1400(一四〇〇cc)を造った。市場はアメリカとドイツだった。
昭和五十六年のカタナ、同五十八年のRG250Γ、同五十九年のGSX-R400、同六十年のGSX-R750、VS750、同六十一年のGSX-R1100、VS1400と、数年の闇に七機種の大型バイクを出した。それらがいずれもヒット商品となった。「一発必中の狙い」 「三ない主義」の開発手法の考え方が成功した。
これで二輪事業部は完全に黒字体質に転換したのである。
[写真:VS750イントノレーターの45度∨型2気筒における不等間隔燃焼4サイクルエンジンはクランク2回転に対して1回の燃焼をする。4気筒ではどのエンジンも等間隔と決まっているが、V型2気筒では、ふたつの気筒の挟み角をどうするかに始まり、2気筒の燃焼間隔の選び方を加えて、エンジンのフィーリングを大きく変えることができる。それだけに設計者は悩むわけである。2手丸再〈荊側)]
|
〈87〉生産業務を効率化 エンジンの荷姿改善
昭和六十三(一九八八)年に取締役・二輪生産管理部長という立場になった。二輪車生産業務全般を担当することになり、生産技術、生産台数の手配、部品の購入、それに三十カ国にある海外工場の技術指導を行うという幅広い仕事である。生産関係の経験はなかったが、やってみると面白くもあったし、成果も上がった。
中でも大きなテーマは、生産業務の効率化と原価低減であった。これらには、部品の機械加工、溶接加工、それにエンジンや車体の組み立て作業があり、生産技術そのものと言っていい。
まず私は、工場内をよく見ることにした。エンジンを造っている本社工場や、車体を造っている豊川工場(愛知県)に何度か足を運んでいるうちに、あることに気付いた。常に動いている工場の活動を、三つに分けることができるのである。
(1)お金を稼ぐ動き
機械加工工場で、歯車や軸など自動化された機械で整然と加工されている。このとき、加工機からは、切削された切り粉が勢いよく出ている。これが“お金を稼ぐ動き”だ。同じく溶接工場では、溶接火花が出ているときが“お金を稼ぐ動き”となる。
(2)お金を稼がない動き
これは必要悪とも言えるもので、工具や治具取り換えを含む被切削物の脱着、部品搬送などは“お金を稼がない動き”である。
(3)お金を使い込む動き
代表的な例が不良品を出すことで、これは大きな損失である。多くの部品を在庫にするのも、金利を使い込んでいることになる。不良品を出して、それらを手修正するのもお金の使い込みだ。
お金を稼ぐ動きのうち、機械加工で切り粉の出ている時間の割合は18%しかない。車体などの溶壊工程で溶接火花が出ている時間は20%ぐらいだ。
“現場にはお金が落ちている”という言葉がある。浜松の本社工場で組み立てられたバイク用エンジンは、車体に組み立てるため、トラックに積んで六十kmほど離れた豊川工場に運ばれる。積み込まれる
のを待つエンジンの荷姿に問題が見つかった。見ると、エンジンとエンジンの間のすき間が多い。
そこで、“浜松の空気を豊川に運ぶのはよそう”と提案をした。エンジンには五〇ccから一四〇〇ccまでさまざまなサイズや形がある。エンジン同士のすき間を小さくし、効率のよい荷姿を見いだすのに半年ぐらいかかったが、36%の改善がなされた。これで困ったのがエンジンを豊川工場に運ぶ運送会社で、仕事が減って売り上げが落ちたが、致し方ない。
平成三年の正月明けに、F1(フォーミュラワン)エンジンを開発してほしいとの依頼がきた。
[写真:987年、わたし(左から2人目)は中国済南2輪工場開きのテープカットに参加した]
|
〈88〉F1エンジン開発 バブル崩壊後で中断
平成三年の正月休みが終わってすぐ、F1(フォーミュラワン)をやってくれないか、と話が来た。久しぶりに胸が高鳴った。F1と言えば自動車レースの最高峰、そのエンジンを開発するとは夢にも思わなかったからだ。世界最高峰に挑戦できるのは幸せである。
以前、社内でF1に参戦するときに備えてエンジンだけでも開発しておこうという方針が決まっており、私に白羽の矢が立ったようだ。数日たってある知り合いから、F1のレイトンハウスチームの人を紹介された。会って話してみると、ロンドンにある彼らの工場を見せてあげてもよいという誘いに発展した。
現地を訪れたのは一月中旬。初日に工場を見学した。初めて見るF1工場だった。F1マシン二台と整然とした整備場、部品庫、二分の一サイズの風洞実験室、ゆったりとしていてきれいだ。
翌朝、彼らがフランスのサーキットに行こうと言い出した。えぇ? 今から? と思ったら、小型ジェット機(二十人乗りぐらい)をチャーターしたからすぐ着くという。タクシー代わりにプライベートジェットを使うのがF1の世界か、何とぜいたくな…と思った。
サーキットに着くと、私はコース脇に張られた金網に張り付いた。F1マシンの走りを間近で見るのは初めてだった。サーキットを借りての各チーム合同テストとのことで、有名ドライバーが大勢走っている。
帰国すると、私たちはすぐにF1エンジンの設計検討を進めた。一方で、F1レースの観戦にも行った。その最初がフランスGPだった。F1レースを実戦で見るのは初めてである。まず、その速さに驚いた。直線のスピードはもとより、S字カーブを抜けるときの切り返し、あの俊敏さは信じられない。F1ドライバーの動体視力は一体どうなっているのだろう。
レースはウィリアムズ・ルノーのN・マンセルが勝った。翌週のイギリスGPでも、再びマンセルが一位だった。この二戦を見て私たちは帰国し、スズキのF1レースエンジンの開発に移った。エンジンの排気量は三五〇〇cc、V型十二気筒と決めた。平成四年にエンジンが完成するとすぐに耐久試験に移る。破壊試験ともいえる条件を耐え抜
いた二輪車エンジンの設計技術を導入したので、大きな問題もなく試験をパスした。最高出力は七百三十馬力であった。これは、F1レースに出ても十分に戦える数値である。技術者としての自信は高まったが、バブル崩壊直後でもあり、スズキがF1をやるのは現実的でないと考え、私は開発中断を上司に申し出た。V12エンジンを一度も走らせることなく終わったのが残念であった。
[写真:スズキが開発したF1用エンジンYR91型。V型の12気筒で、排気量は3500ccだ]
|
〈89〉パイクス山 タイヤを加工し勝利
米コロラド州のロッキー山脈に、標高四,三〇一メートルのパイクス山がある。二十世紀の初めごろ、この山のふもとから頂上まで道路が造られた。そして、そう長い時を経ず、この道を使ったレースが始まった。第一回は大正五(一九一六)年で、アメリカ独立記念日の七月四日に行われるのが常だった。
標高二千八百メートルの地点をスタートして頂上まで二十kmメートル、標高差千五百メートルの登坂路を一台ずつ走り、要した時間で勝ち負けを競っていた。
この山道はふだん観光道路で、一人五ドル(約五百円)の通行料を払わされる。富士山(三、七七六メートル)よりも高い標高四、三〇一メートルでは平地より43%も空気が薄くなり、駆け足でもしようものならすぐ高山病にかかって頭が痛む。
平成七(一九九五)年は本番のレースが七月四日。その前の三日間に公式練習が行われる。練習は夜明けから午前九時までで、それ以降は一般の観光道路となる。私たちは午前三時に起床し、起きるとすぐにピットのあるスタート地点に向かう。四時ごろ着くと、ドライバーの田嶋信博はコース下見のため頂上へ向かう。私もレンタカーで頂上へ行く。辺りは真っ暗だ。
頂上に看いてしばらくすると、東の空が明るくなる。午前五時ごろ、標高四、三〇一メートルの足元のさらに下から太陽が昇ってくる。このご来光は格別に美しかった。やや南に目をやると眼下にコロラドスプリングスの夜景が見える。夜明けと夜景のコントラストが素晴らしい。
公式練習の結果は、トップがトヨタセリカで僅差(きんさ)でスズキエスクードの田嶋が二位だ。セリカの車高が五センチぐらい低く、風損抵抗の差が出た。ここまで来て負けるわけにはいかない。対応はタイヤしかないと考えた。
タイヤメーカーの井上ゴム、ドライバーの田嶋、それに私の三者でミーティングをした。最高速は無理なのでコーナーのスピードを上げ、それからの立ち上がりスピードを上げる作戦とした。そのためのタイヤはどうすべきかのアイデアを出し合った。溝の付いていないツルツルのタイヤを持って来て「その場で二時間かけ、電気カッターで彫って本番用タイヤを造った。本番レースは最後から二番目に田嶋がスタート。五分後にトヨタR・ミレンが出た。私はじっと待った。すると、松林の中に作られた掲示板に、“田嶋:七分五十二秒”と書かれた。しばらくして“R・ミレン:七分五十三秒”と出た。一秒差で勝った! 田嶋が、スズキが、勝った。下山してくるなり田嶋は「おかげで勝ちました」と言って握手を求めてきた。私はとてもうれしかった。
[写真:標高4,301メートルのパイクス山へのヒルクライムで優勝した時の記念写真。私(右)の隣はドライバーの田嶋信博]
|
〈90〉感 謝 発見もたらした執筆
自分史の執筆依頼を受けたのが、昨年十一月だった。初めは遠慮したが、編集局長に熱心に口説かれて執筆を受けることにした。決め手となったのは「横内さんは、宮崎県民に伝える義務があります」というお言葉だった。地元の新聞に自分史を執筆できるのは大変名誉なことだと思い、引き受けた。三月に連載が始まると、いろんな方々から、電話やメールなど多くの励ましをいただいた。
三月十九日付に川南町トロントロンの地区名のいわれを書いた。トロントロンから塩付まで、自転車に乗って来た白いエプロン姿の産婆さん(正しくは助産師)が私を取り上げてくれた、とも書いた。すると、私の恩師が調べてくださり、産婆さんの名前は萱嶋ハナ(故人)という人であることが分かった。だから、姉・伊津子も萱嶋ハナさんにお世話になったのは間違いない。産婆さんの名前が分かるとは、思いがけない知らせだった。教えてくださった恩師に感謝である。
三月十二日付に自分史の予告が宮崎日日新聞の一面に載った。それを私の妻の姉、倉掛禮子さん一家(高鍋町在住)が発見した。その日の夜、電話がきた。「悦夫さん、自分史を書くとはすごいね。おめでとう」と言い、さらに続けて「お祝いに宮日新聞を送ります」と言われた。その後、毎日欠かさず宮崎日日新聞が送られてきている。私にとって最高のお祝いをいただいたと思っている。お話によると、「新聞の内容は立派な教材になりますよ」とも言われ、感動した。
昨年の春、前都農町長・河野通継さんのお招きで、「都農町企業交流セミナー」の講演会講師を務めた。同町内の名士、企業家、役場職員の方々、それに私の友人や親せきで、会場の同町中央公民館はいっぱいになった。地元の皆さんの前でお話しできたのを大変光栄に思った。
この折、河野さんとの思いもよらぬことが分かった。三月二十一日付に、中学時代にボーイスカウトの活動で、矢研の滝のことを書いた。当時、私は二年生で、滝の上からロープを垂らして高さを測ったのだが、その時、下でロープを受けたのが、一年生の河野さんだったとか。意外にも、河野さんが私の後輩であることが六十年ぶりに分か
った。自分史を書いて、いいことがいっぱい分かったのだ。
自分史は、ほとんど記憶だけで書いた。体験を書いていると、次々にその時の模様が克明に出てくるから不思議だ。体が覚え込んでいるのだろうか。
「世の中の流れを変えよう」を読んでいただいた多くの読者の皆さんに感謝するとともに、宮崎日日新聞社に心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。
(おわり)。
[写真:昨年3月、都農町であった「都農町企業交流セミナー」で講演。20分間のGPレースのビデオを挟んでの楽しい1時間だった]
|
|