世の中の流れを変えよう
元スズキ二輪車設計者 横内悦夫

(宮崎日日新聞連載 2008年5月3日 〜 2008年5月13日 掲載分) 6/9

〈51〉マジック点灯 レース本番胸高鳴る

 ロードレーススウェーデンGPを“普通”の作戦で戦ってバリー・シーンが優勝した。私はチームを転々と渡り歩き、最後のスケジュール、西ドイツのビルシュタインに向かった。昭和五十(一九七五)年七月十三日のモトクロス五〇〇ccクラス第九戦が目的だ。世界GPレース参加四種目のうち、私が最も重点を置いたモトクロス五〇〇ccクラス、何が何でも世界チャンピオンを獲得するぞと意気込んだ種目だ。
 第三戦フィンランドで鉄人ミッコラを負かして以来、わがロジャー・デコスタは連戦連勝でここまできた。“フィンランドでミッコラをたたけ”の作戦は完全に成功した。しかも、この第九戦西ドイツGPで、第一、第二レースともに優勝すれば、デコスタの世界チャンピオンが決定する。“マジックナンバー2”が出た。
 GPレースの行われるピルシュタインは、フランクフルト空港から北へ車で一時間ほど走ったところにある。コースは、スタートすると左にカーブして大木の林立する山の中を走り、奥にある牧場地のS字コーナーを回ってホームストレッチになる一周二キロ余りの常設モトクロスコースとなっている。
 公式練習は金曜日に始まる。朝九時ごろ着くと、デコスタはローリー夫人とともにすでに到着していた。モトクロス五〇〇ccクラスのパドックに限っては、チームで手配する必要がなかった。われわれが着くと、最もよい場所に“SUZUKI”の三角旗の付いたロープを張って陣取りし、しかも立派なテントまで張られたパドックが出来上がっているのが常だったからである。
 デコスタファンでベルギー人の老夫婦が、いつも前の日から行って、デコスタのためにパドックを作ってくれていた。私たちはこれをデコスタホテルと呼んだ。おいしいコーヒーをすぐさま作ってくれるのも、いつものことだった。
 私は折を見て、そっとデコスタに「フィンランドGP以降ミッコラ選手はどうだい?」と尋ねてみた。すると、デコスタは「フィンランドで両ヒートとも私が勝って、彼はナーバスになったようです」と言う。私は“フィンランドでミッコラをたたけ”の作戦が的中したと再確認した。
 しかし、デコスタは続けて「自分が勝ち進んできてはいるものの、最大の難敵はミッコラであることには変わりありません」と話を締めくくった。金曜日と土曜日の公式練習を終え、明日の本番を待つのみとなった。
 昭和五十年七月十三日、日曜日。胸の高鳴る中、モトクロス五〇〇ccクラスがスタートした。瞬間、鉄人ミッコラがまず飛び出した。

[写真:1975年のモトクロスGP500ccクラス第2戦イタリア。トップのハイキ・ミッコラ(ハクスバーナ)を追うロジャー・デコスタ(スズキ)]


〈52〉むなしさ 世界一獲得した瞬間

 世界モトクロスGP五〇〇ccクラス第九戦、西ドイツGP第一レースがスタートした。瞬間、鉄人ミッコラがまず飛び出した。わがデコスタは五、六番手で第一コーナーを通過。デコスタは周回ごとに順位を上げていく。早くトップに追い付け、と私はイラついていた。ようやく、スタートして二十分ぐらいたって、デコスタはミッコラに追い付いた。二人の激しいバトルが続く。
 ドッグファイトが数周続いた後、スタートして三十五分ごろに、ついにデコスタがトップに立つ。そして、徐々にミッコラを引き離し始めた。さすがの鉄人ミッコラもこれを詰めることができず、デコスタは第一レースを制した。
 休む間もなく、午後の第二レースに備えてマシン整備に取り掛かる。メカニックたちは昼食も取らない。第一レースに勝ったのに、パドック内には笑頗一つなく、みんな黙々と自分の仕事をこなしている。
 “デコスタホテル”の老夫妻は、私に気を使って食事を勧めてくださるが、第二レースを前にしての緊張のためか、食事がのどを通らない。午後のレースに勝てば、世界チャンピオンが取れるのだ。ならば水でもとロにするが、水ですら満足に飲めない。それでも何とか乾きを潤すことだけはできた。
 そんな中で、デコスタだけはまったく落ち着き払って、緊張している様子は全然ない。しかし私は、彼がすくそばにいるのに、話し掛ける気にはどうしてもなれなかった。
 午後になり、いよいよ第二レースのスタート時刻が迫った。選手たちは、スターティンググリッドに着き始める。途端に私の心臓が高鳴りだした。ドキドキというより、タンタンタンッとハンマーでたたくようだ。大げさでなく、本当に心臓が破裂してしまうのではないかと思うくらいに高鳴った。レースは健康に良くない。
 第二レースの四十台のマシンがごう音とともにスタート。やはり、ミッコラがトップで第一コーナーヘ。デコスタは十番手ぐらいか。なかなか順位が上がらない。役にも緊張があるのか。レースは四十分プラス二周だ。時計を見る。時間がたつのが異常に早い。スタートして十五分、デコスタの走りが急に変わった。鬼神にも似た激しい走りだ。三十分を過ぎたころ、ついにミッコラを捕まえてトップになった。マシンよつぶれるな、デコスタよ転ぶな、と私は祈った。
 ついに、デコスタはトップでゴールした。世界チャンピオン獲得の瞬間だ。その瞬間、私はなぜかガックリと全身の力が抜けてしまうのを覚えた。私はむなしい気持ちになった。

[写真:ドイツの象徴となっているブランデンブルク門]


〈53〉ウイニングピストン 激戦を物語る暖かさ

 世界チャンピオンをいざ獲得してみると、意外にも私を襲ったのは虚脱感だけだった。
 チャンピオンが決まったばかりのデコスタは、大観衆の前で盛大な祝福を受けているではないか。当然のことだ。その上、金も地位も名誉も莫大(ばくだい)なものを得る。モータースポーツの社会的地位は、日本よりヨーロッパの方がはるかに高い。だから、これは当たり前なのだ。
 で、私は自分の手のひらを見た。ほこりにまみれ、カサカサした手のひらには何もなかった。“チャンピオンって一体何だ”。オレの手には何もないではないか! デコスタも、すごい練習をやった。だけど、オレだって命懸けでやった。胃かいようにもなったし、この二年間、私は家庭を妻に任せっきりで迷惑を掛けた。そこまでやったのに、私には何もないではないか!
 もうこんな仕事はやめた!と思った。ついに、私の口から愚痴が出た。それまで私は、愚痴や言い訳は一切しなかった。ところが、デコスタが世界チャンピオンに決定した瞬間、虚脱感に襲われると、ついに私の口から愚痴が出たのである。
 私は無性に酒が飲みたくなった。胃かいようでドクターストップがかかっていたが、洒でも飲まなきゃたまらなくなって、一人私はホテルに向かった。
 バーで水割りを二、三杯飲んだころ、誰かが、私の右肩にそっと手を置いた。振り向くと、先ほど世界チャンピオンになったデコスタが一人ニッコリしながら立っている。
 私は、「ワールドチャンピオンおめでとう」と握手を求めた。するとデコスタも手を差し延べてきた。「ミスターヨコウチ、これをあなたに差し上げます」と一個のピストンを渡した。私は、「何?これ」と言って受け取ると、「あなたのおかげで、世界チャンピオンを取ることができました。このピストンは先ほど勝ったマシンから外してきたものです。いわばこれは“ウイニングピストン”です」
 ピストンを手にすると、今日のレースでの激戦を物語るようにまだ暖かい。肌はつややかでオイルのにおいがプーンと香り、何とも言えない。私はそっとピストンにほおずりをした。すると、思わず涙が出てきた。見るとあいつの目も潤んでいる。
 そこで私は大変なことに気が付いた。「私の得たものは、このデコスタだ。金でも地位でも名誉でもない。この素晴らしい世界チャンピオン、デコスタがオレのものになった。オレの得たものは彼の心だ!」と気が付いた瞬間、私の目から涙がどっと出てきた。涙はいつまでも私のほおを流れた。

[写真:横内家の家宝の中でも特別の一つであるウイニングピストン。ピストンの文字は1990年代後半にロジャー・デコスタが来日した時のもの]
〈54〉チャンピオン気質 臆病と勇気併せ持つ

 「オレの得たものはデコスタの心だ」と気付いた瞬間、私の目からどっと涙が出てきた。世界の頂点を極めるため、私は彼を必要としたし、役も私を必要とした。世界チャンピオン、ロジャー・デコスタも泣いている。二人で固い握手をした。“ああ、こういうのを幸せというのだろうか”と私は思った。このウイニングピストンは、家宝として今でも大切に私の家に保存してある。
 ロジャー・デコスタ、バリー・シーンをはじめ、私はその後十数人の世界チャンピオンに恵まれたが、彼らの気質に共通したものがあった。(1)勇気がある(2)繊細な思いやりがある(3)臆病(おくびょう)者である、の三つだ。これらの中で私が意外に思ったのが、“チャンピオンは臆病者である”ということだった。
 負けるのが怖いから猛練習をする。負けるのが怖いからマシンに対していろいろと注文をつけてくる。そして役に立つアイデアは独り占めにしたがり、チームメートにも内緒にすることを望む。いずれも臆病な者の行動の表れともとれる。
 世界の頂点を極めた人だからどんなに強いかと普通は思う。ところが、彼らも生身の人間だ。とても孤独で、誰かに頼りたくなる気持ちだってある。だから、時として、それを彼らはボスである私に求めてくることもあった。赤毛のゴッツイのが、「ミスターヨコウチ」と言って甘えてくるのはとてもかわいく、また私はうれしかった。
 臆病といっても、彼らのそれはビクビクするのと違って、裏を返せば勇気と言えるものだ。登山家があとわずかで、頂上を極めようという時、急に天候が悪化、そこで隊長は隊員の生命・安全を考え、残念ながら撤退せざるを得ない時があると聞く。この場合、撤退という“臆病な行動に出る勇気”を持っている、と解釈した方がいいと思うのである。
 こう考えれば、臆病と勇気は表裏一体であって、その度合いの強い人ほど強いチャンピオンであることに、後になって気が付いた。人間はいったん頂点を極めると、勝った時の喜びよりも、負けた時の怖さを知るようになる。そのために、とても臆病な行動に出る行動がはぐくまれ、すぐにそれを行動に移せるようになる。世界チャンピオンたちから学んだ、貴重な人生経験だった。
 さらにもう一つ、ワールドチャンピオンが共通して持っていたのが、みんな頭がいいことだ。記憶力も非常に優れている。それに頭脳明晰(めいせき)。そうであればこそ、勇気ある行動と撤退という、私にはできそうにもない判断を所持に下せるのだろう。

[写真:世界チャンピオンの一人、ロジャー・デコスタ]
〈55〉運も実力 “はこび”が勝負左右

 レースの終わりはいつなのだろうかと考えたことがある。どんなレースでも、レースそのものはチェッカーフラッグが振られた時点で終わる。ところが、現場のレースチームには、それからもうひと仕事が待っている。
 マシンがゴールしてパドック(車両置き場)に運ばれてくると、メカニックたちはすぐに点検作業に移る。完走したとしても、不具合な部品が発見されることも多いし、もっと性能アップしなければならない部品もある。必要なものを次のレースのために本社に手配して、初めてその日のレースが終わりとなる。
 勝負事に勝った後、「運よく勝ちました」という言葉を発する人がいる。以前の私はそれを聞いて、とても謙遜(けんそん)した言い方だと思ったものだ。ところが、自分がレースの仕事を始めてみると、“運よく”という言葉の別の意味があることに気付いた。私は“運よく”という字に仮名を付けてみた。すると、“運よく”は“はこびよく”にもなる。
 “はこび”とレースを結び付ければ、勝つための発想、目標、開発、レース参加への段取りであり、レースがスタートするまでのありとあらゆる長期間にわたる準備、プロセスなのである。だから“運”は、つまり“はこび”は“実力そのもの”なのである。ところで、私は、昭和四十九(一九七四)年二月、ひどい胃潰瘍(かいよう)になって、しばらくの間、苦しい思いをした。私はまじめに医者の元に通い、忠告通り節制もした。半年ぐらいたつと、ほとんど胃の調子は良くなっていた。
 しかし、私の胃潰瘍を治してくれた最大の功労者は、私の妻だと思っている。昭和四十九年一月、レースグループ長になると、帰宅は遅くなり、徹夜の日々もあった。しかし、夜中の二時であろうと三時であろうと、私が家のドアを開けると、「お帰りなさい」と言って、彼女は笑顔で迎えてくれた。
 妻だって疲れている。だから、「お帰りなさい」の笑顔は当然つくった笑顔だ。だが、私はその思いやりがうれしかった。温かい夜食もちゃんと用意されていた。二人だけの晩ご飯だった。
 私は家のことは一切けず、全部妻がやってくれた。その間、彼女は愚痴ひとつ漏らさかった。忍耐、気配り、明朗…。パワーとエネルギーを私に与えてくれた。私が現在あのは彼女のおかげだ。妻・敬子は木城町出身。高鍋高校卒で、趣味の書道では師範の資を持ち、毎年、国際書道展に出展し、上位に入賞している。今年も挑戦すると張り切っいる。

[写真:1978年、結婚して18年目の私たち。妻の敬子は趣味の書道で師範の資格を持つ]

〈56〉新たな挑戦 市販車の設計・開発
 
 昭和五十(一九七五)年、つまり私がレースグループ長になって二年目のシーズンは、モトクロスGPの一二五ccクラスと五〇〇ccクラスで二つの世界チャンピオンを取り、ロードレースGPでも五〇〇ccクラスで二勝するなど、ほぼ所期の目標は達成した。続く昭和五十一年に向けてのマシン開発も、順調だった。
 五十一年は、世界GPレース参加を三種目に絞った。モトクロス五〇〇ccクラスと一二五ccクラス、ロードレースは五〇〇ccクラス。この三つで世界チャンピオンを取れば、企業PRも技術開発も十分だ。そんな昭和五十年の暮れになって、部長に呼ばれた。
 「横内君、来年のレース計画をどのように考えているのか」と。私は「各種目でチャンピオンを取れるようになったし、選手の契約金も上げなければいけません。そこで、予算のことも考慮し、モトクロス、ロードレース合わせて三種目にします」と答えた。
 「そうか。自信のほどはどうだ」
 「モトクロス五〇〇ccでデコスタ、一二五ccクラスでライア、ロードレース五〇〇ccクラスでシーンを世界チャンピオンにします」
 「絶対取れるのか」
 最後に部長はこう詰め寄ってきた。私は昭和四十九年、五十年の経緯から百パーセント自信があったので「絶対にこの三人をチャンピオンにします」と答えると、意外な言葉が返ってきた。
 「レース活動も軌道に乗ったから、レースグループ長はこれきりでよい。来年からは市販車の設計・開発に当たってくれ」。つまり、レースグループを去りなさい、という宣告である。来年こそは自信満々のゆったりした気分で世界を転戦しようと思っていた矢先だったので、正直なところ私は少しがっかりした。
 昭和五十一年は、排ガス規制や璧日騒音規制が、世界中で厳しくなりつつある時代でもあった。スズキとしては、規制に対応しやすい4サイクルエンジンの開発が社の急務となっていた。その開発を強力に推し進めるのが五十一年からの私の仕事となった。このような背景で、私はレースグループ長を去ることになった。仕事が変わるのはまた新しい挑戦の始まりだし、これはいいことなんだと思うことにしたのである。
 レースグループを担当したこの二年間で、私の考え方が変わった。それまでは、流れに遅れないようにしていればよかった。しかし、レース界では、“流れについていく”から“自分で流れを変える”に考え方を変えなければ、GPレースに勝てなかった。それを現実のものにすれば、生産車開発において、ヒット商品を必ず生み出せるはずだ。

[写真:スズキの豊川工場=愛知県豊川市]


〈57〉商品開発 客にほれることから

 昭和四十九(一九七四)年一月、レースグループ長に就任したころ、レースにまったくの素人の私は、不安と戸惑い、それにスズキが築き上げてきた輝かしい世界GPにおける伝統に押しっぶされそうな毎日を送っていた。入社以来携わってきた生産車開発のペースでは、レースの世界ではまったく通用せず、その数倍のスピードが要求された。私自身の考え方を変えざるを得なかった。
 GPレースマシン開発にあたって、選手たちにほれる、選手たちに尽くす気持ちになることが、世界GPに通用するマシンを造る最短距離だった。選手にほれる、選手を愛することこそが、“レースは愛である”のゆえんである。
 昭和五十一年から、生産車(商品)開発をすることになり、GPレースで学んだ“世の中の流れを変える”考え方をすれば、生産車でもヒット商品開発ができるはずだと考えた
 GPマシン開発では選手と設計者がいて、その間にGPマシンがある。だから、選手と設計者は一対一の関係となる。マシンは鉄とかアルミといった冷たいものではなく、もっと心のこもった温かいものなのである。
 商品面ではどうか。お客さまは、何万人という不特定多数である。しかし、買ってくださったお客さまから見れば、その一台が100%である。だからGPマシンと同様に、お客さまと設計者は一対一になると考えなければならない。
 だから、商品開発もGPマシン開発と同じように、お客さまにほれることから始めればよい。“レースは愛である”という言葉が、“商品開発は愛である”に言葉が少し変わるだけだ。この考え方で取り組めば、ヒット商品造りはきっと可能である。
 昭和三十二年の入社から十九年がたち、私は四十一歳となった。レースの仕事に就くまで市販車エンジンのみの開発を続け、知識の範囲も狭かったが、GPレースのおかげで世界中に多くの知人や友人もできた。レーシングマシンの開発、レースの現場に携わったことで、二輪車全般への理解が大きく進んだのだ。エンジン性能のあり方、車体、前後クッション、ブレーキ、軽量化など、全部市販車と同じだ。それらは、将来の二輪車はこうあるべきだとの方向付けにもなると確信していた。
 しかも、それらを現実のものにすれば、ヒット商品を必ず生み出せるはずだ、との自信もわいてきた。レース界の流れを変えてきたように、市販車の世界でもヒット商品を造ることで、必ず流れを変えることができる。四サイクルエンジンの世界はまだまだこれからだ。そうしたことを考えてから、私は、自信と新しい気持ちで昭和五十一年を迎えた。

[写真:バリー・シーン(左)と私の次男・知大(ともひろ)]

〈58〉走行テスト(上) 5台持ちアメリカヘ

 昭和五十一(一九七六)年の正月、私は浜松市郊外のゴルフ場にいた。四番ホールのティーグラウンドに着いたとき、キャディーマスターが車でやって来て、「横内さん、会社から電話です」と言う。プレーを中断して電話口に出ると、開発スタッ
フの一人が、「GS750最終試作エンジンの耐久試験で不調になったので、すく会社に来てください」と、切迫した声で伝えてきた。一月一日付で二輪エンジン設計課長になった私への最初の業務連絡だった。エンジン不調の原因は簡単なことだったので、対策にはそんなに時間を取らずに済んだ。
 アメリカの排ガス規制が昭和五十一年から厳しくなり、一酸化炭素(CO)などの排出量をそれまでの十分の一以下にしなさい、ということになっ
た。その対応策として、スズキは4サイクルエンジンのGS750、550、それに400の三機種を並行して開発していた。昭和五十一年一月にこれらは90%完成しており、一部耐久試験を残すのみとなっていた。
 耐久試験とはいうものの、破壊試験に近い厳しい条件で行われていた。試験室の広さは畳十四畳くらいの広さだろうか。安全と防音のため、厚さ三十センチのコンクリート璧の部屋に、厚みが一センチのガラスが三重に張られた幅一・五メートルぐらいの窓から、中を監視できるようになっている。コンピューターコントロールにより、耐久試験運転がなされる。この耐久試験にパスすれば、エンジンは終生絶対に壊れないだろうというほどの厳しい評価基準だった。
 厳しい耐久試験を見事にクリアした私たちは、二台のGS750と三台のGS400、合計五台を持ってアメリカに飛んだ。昭和五十一年二月初めのことだ。主な市場である地で走行テストをするためである。
 比較用として、競合するホンダやカワサキの各車種、五台のオートバイを現地で購入した。これで合計十台の二輪車軍団が誕生。アメリカ国内から集めたテストライダーにUSスズキの社員十人を加え、私たちは長期間の走行テストに出発した。
 軍団は太平洋沿いに南下してサンディエゴヘ向かい、そこから東に向きを変え10号線を走った。メキシコとの国境沿いに、当時ヤクルト球団の春のキャンプ地でおなじみのアリゾナ州ユマがある。そこで一泊。
 翌朝ホテルを出発し、向きを北に変え、“コロラドリバーインディアン保護区”で休息をとった。私は売店でインディアン手作りの木製の鳩(はと)を二個買った。コロラド川に抜ける手前の山道は、格好のワインディングロード(峠道)である。

[写真:ラスベガスからロサンゼルスへ向かうテストチーム]


〈59〉走行テスト(中) 高地でも不調感じず

 インディアン保護区で手作りの木製の鳩(はと)を買い、コロラド川の手前の山道に入ると、S字カーブの連続した楽しい道となる。こういう道になると、誰彼となく自然に走りのペースが上がる。軍団は走りの好きな連中の集まりだ。ロードレースもどきの走りを楽しみ…いや、正しくは操縦安定性やブレーキ性能をチェックするためのテスト走行である。
 当然のことだが、各マシンの燃料およびエンジンオイルの消費量は連続して記録した。各部に異常はないか、ホテルに着くと毎日チェックする。
 コロラド川に沿って北上し、しばらく走るとアリゾナ州の山岳地帯に入る。こつぜんとサボテンの林が現れてくる。何となく心が和む。あまりの景観に、この地方を初めて訪れるアメリカ人テストライダーの何人かは、わざわざオートバイを路肩にとめて盛んにカメラのシャッターを押している。よく見ると、ニューヨーク州やミシガン州などアメリカ東部から来た連中だ。彼らにとっては、願ってもない観光ツーリングだったに違いない。
 その日はアリゾナ州キングマンで一泊。翌日、グランドキャニオンへ向かう。後に世界遺産となったグランドキャニオンは、何度見ても素晴らしい。こうした観光地をロングトリップのコースに入れると、テストライダーたちが喜ぶし、やる気を起こす。
 私がグランドキャニオンをコースに入れたのには、別の理由があった。昭和四十(一九六五)年に初めて当地を訪れたとき、私はアメリカで当時大ヒットしたT20型で走った。その折、グランドキャニオンが近づくにつれ、エンジンの調子がおかしくなったのだ。
 知らない間に標高二千百メートルにまで上り、空気が薄くなってエンジンが高山病にかかり、エンジンの回転が重くなって、パワーもなくなった。そこで空気が10%薄くなった分、エンジンに供給する燃料も絞ったところ、エンジンに勢いが戻った。
 今回、GS750/400は平地から標高三千メートルまで走れるよう、エンジンに供給する燃料を調整してきた。それでよいかどうかを確認するために、グランドキャニオンをテスト地として選んだのである。
 GS750/400のライダーに確認すると、この高度でも特にエンジン不調は感じないという。私も乗ってみたが、問題はなかった。無論、燃料消費量も悪くなってない。昭和四十年、T20型のこの地での経験が生きた。ライバル車もすべて合格レベルだった。数年の間に各社とも改良を行ったようだ。
 グランドキャニオンでの機能チェックを終えて、私たち一行は西に進路をとり、ラスベガスへと向かった。

[写真:日本とアメリカの混成チーム。前列右が私]
〈60〉走行テスト(下) 人造湖の広さに感服

 グランドキャニオンでエンジンの機能チェックを済ませたテストチーム一行は、西に進路をとりネバダ州ラスベガスヘと向かった。ラスベガスの手前には、有名なフーバーダムがある。このダムはフーバー米元大統領がコロラド川をせき止めて造ったアメリカ最大の人造湖で、一九六九(昭和四十四)年に人類で初めて月面に降り立ったニール・アームストロングが、月面の様子を「フーバーダムの周辺のようだ」と伝えたのは有名だ。
 私たちは、それが見たくてフーバーダムに立ち寄ったのだ。巨大なダムの近くに草木は一本もなく、辺り一面赤茶けたとがった岩石がゴロゴロしているだけの潤いのない乾いた光景だった。私は月面を想像しながらそこに立った。そして、巨大なダムと人造湖の広さに感服した。
 テストチームの一団は、いよいよラスベガスに到着。しかし、予約したホテルに着くと「その格好では中に入れませんよ」と言われた。オートバイ乗りの皮ジャンパーのままの二十人近い軍団の雰囲気を、汚い暴走族と思ったのだろう。仕方なく私たちは町外れの広場まで移動し、随行したトラックの中でそれなりの服装に着替えて出直した。
 ラスベガスには二日間滞在。カジノとショーを十分楽しんだ私たちは次の朝、ホテルを出た。ラスベガスは広大な砂漠の真ん中にあり、そこから数キロ離れると、いく筋かのハイウェーがある。カラカラに乾いた真っ平らな砂漠の中、十キロも続く直線賂を見つけると、そこを“高速テストコース”と決め込んだ。当時、ネバダ州はスピードチェックは厳しくなかったので、最高速や全力加速のテストにもってこいというわけだ。
 マシンの速い・遅いは結局比べてどうかの話だ。私たちは、それぞれの排気量で、ライバルメーカーのそれと二台並べて加速性能や最高速の比較をした。この比較走行で私たちは満足すべき結果を得ることができた。
 テストの最終日は、ラスベガスからロサンゼルスに直行する五百キロの区間だ。途中二人乗りテストも交え、マハビ砂漠をひたすら西に向かう。夕方、私たちは一週間、三千二百キロのテスト走行を終え、ロサンゼルスに戻った。途中事故もなく、ハイウェーパトロールの世話にもならなかった。
 翌朝、全員でミーティングを始めると、パフォーマンスバイクのことが話題になった。テスト走行の経過から見て、スズキGS750だと思ったのに、カワサキ九〇〇ccZ1がパフォーマンスバイクだという。この世の中で最も優れた速いバイクをパフォーマンスバイクと呼び、それがカワサキだというのである。

[写真:面を想像させるフーバーダムをパックに]
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