世の中の流れを変えよう
元スズキ二輪車設計者 横内悦夫
(宮崎日日新聞連載 2008年4月23日 〜 2008年5月2日 掲載分) 5/9 |
〈41〉古城公園 憩いの場レース場に
昭和四十九(一九七四)年の五〇〇ccモトクロス世界選手権第九戦、オランダGPは七月二十八日に行われる。マルケロのコースは森の中を切り開いて造った常設のモトクロスコースで、路面はオランダ特有の砂混じりの土である。
第一レースが始まった途端、世界GPが日本のレースとまるで違うことが分かった。五〇〇ccという大きいエンジンを積んだ約四十台のマシンが、一斉にスタートするど迫力に度肝を抜かれたのだ。
二レースのうち、一レースだけ優勝する作戦に出たらしいミッコラは、すごい気迫でスタートを切った。そのまま走って一位でゴール。貴重な十五点を得て、有効ポイントを百六十六点とした。デコスタはほかの選手に邪魔をされながらも(シリーズ後半にはこうしたことが多い)、よく追い上げて三位に入った。
第二レースはデコスタが優勝し、有効ポイントを百五十六点としたが、ミッコラに十点の後れを取った。第二レース、ミッコラは途中棄権した。デコスタの僚友のウォルシンクが二位に入り、スズキは十二点を得た。
その一週間後の第十戦はベルギーGPだ。ベルギーはデコスタの出身地でもある。場所はナミュール城公園。普段は、丘の上に築かれた古城を中心にした公園として、多くの観光客でにぎわう。八月四日はモトクロスGPのため、公園は閉鎖され、モトクロスレース場と化す。古城公園という憩いの場がレース場となるのだから驚いた。何という市民の理解か。レース当日は数万人の観衆がコースを埋め尽くす。
午後一時ごろ第一レースがスタート。ここで鉄人ミッコラの集中力の非凡さを見せつけられた。スターティングの瞬間、ミッコラが飛び出し、そのまま第一コーナーヘ。公園の乾いたグラウンドを一周して、トップのまま急な下りを飛び降りるように、巨木の乱立するコースに消える。必死にデコスタが仕掛けるが、ミッコラのガードが堅い。第一レースは、またもやミッコラが一位となった。一時間ほど間を置いて第二レースがスタート。今度はデコスタがトップに出た。このレースでも勝つ気できたのか、ミッコラが追う。デコスタとの激しい戦いが続く。
ひどく荒れた右カーブでの二人の壮絶な競り合いは、フロントタイヤが時々、ダダッと外に流れたり、ハンドルが左右に振られたりして、よくも転倒しないものだと思うと同時に、見ていて怖い。それでも両者のスピードは落ちない。これが世界の頂点の走りか!懸命に逃げ続けるデコスタのけなげさに頭の下がる思いがした。
[写真:ベルギーのワロン地方にたたずむブェーブ城=ベルギー観光局提供、撮影・八木実枝子]
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〈42〉ライダーと私 信頼し、尊敬し合う
四十五分間の壮絶な争いが続いて、第二レースはデコスタが制した。メーカータイトル争いのポイントが、ついに並んだ。スズキ車とハスクバーナ車がともに百七十一点となったのだ。最終戦のルクセンブルクOPまで持ち越されたわけである。
ベルギーGPの第二レース終了後、一段落したところで、私はデコスタに尋ねた。「あそこの右カーブで安定性が悪いのは、マシンのせいではないのですか」。するとデコスタは、「あんなに荒れた路面でのコーナリングでは、振られたってしようがありませんよ」と答えてきた。
第二レース観戦中、私は、あのコーナリングで振られないようなマシンにすることができれば、ライダーは怖い思いをせずに、もっと楽に速く走れるのではないかと感じていた。だからデコスタからは、「もっと良くしてくれ」と言われると思ったのに、「しようがないよ」の返事が私には意外だった。
二月の浜松でのテストで、「今度のボスは頼りにならない」とバカにされ、つらい思いをした私と開発スタッフは、はとんど“二十四時間営業”でマシン改良をしてきた。ベルギーGPを観戦して、自分が開発したマシンに不満を持ったのに「しようがないよ」という言葉をかみしめるうちに、“おれはデコスタを超えたかな”と自信のようなものがわいてきた。帰国したら、早速このテーマに取り組まなければいけないと決意した。一週間後、私はスウェーデンのホテルにいて、モトクロスGP五〇〇ccクラスの結果を待っていた。結果次第で、個人、メーカータイトルの両方が決まるのだ。しかし、午後七時になっても八時になっても電話はこない。私は“負け”を悟った。
午後十時ごろになってようやく電話のベルが鳴った。デコスタからだった。彼の第一声は、「アイアムソーリー、ミスター・ヨコウチ」。意外な言葉だった。私は、マシンの性能が悪いと文句を言われるものと覚悟していた。負けたのに、あのデコスタにまさか謝られるとは思わなかった。
二月、浜松でのシーズン前の走行テストで、彼らに侮辱されたが、もうこの時点では心のわだかまりはなくなっており、むしろ相手を信頼し、尊敬し合う間柄になっていたように思う。
二月走行テストの時は、白人と東洋人という国民感情のずれを少なからず私は持っていた。しかし私は彼にほれ込む努力をし、彼に尽くす気持ちでGPマシンを成長させてきた。当然デコスタもそのことに気付いていた。デコスタもレースに最善を尽くした。
[写真:筆者の最も記憶に残るライダーの一人、デコスタ]
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〈43〉1974年 無冠でも充実の1年
昭和四十九(一九七四)年の世界グランプリシリーズ戦でスズキは無冠に終わったが、私はある種の充実感のようなものがわいてくるのを覚えた。三カ月前の五月、富山県牛岳での日本GPのとき、心に決めた“レース界の流れを変えてやろう”の気持ちは少しも揺らぐことはなかった。むしろ、“今に負かしてやるぞ”という気持ちがますます強くなってきた。
四月から八月にかけて、全日本選手権レースと世界選手権レースに監督として参加した。この体験は、私にとって非常に貴重なものだった。負け犬相性から脱出し、日本グランプリではついに一勝することができた。一方で、ロードレースやモトクロスレースにおける世界の頂点の厳しさに驚き、近い将来、そんな世界グランプリを制しなければならないというプレッシャーの大きさと責任の重大さなどを学んだ。
さらに、今後世界の頂点を狙うために必要なマシン開発上の情報を数多く得ることもできた。スニーカーや長靴を履いてサーキットの中の至るところを走り回って“頂点の走り”を間近で観察することで、技術開発の多くのヒントも発見した。
私のメモ帳に書き込まれた開発テーマは、主なものだけでも三十数項目になった。これらを片付けさえすれば、来年は絶対にデコスタを世界チャンピオンにすることができる。メーカーチャンピオンも取れるし、レプリカ版市販レーサーRMの発売で、三億七千万円の借金も十分利子を付けて返せるだろう。今年は一つのタイトルも手中にできなかったスズキだが、私の中に来年に向けての自信がわき、充実感もあった。
ヨーロッパで三つのレースチームの間を転々とした四週間余り、私は多くの情報を仕入れて帰国の途に就いた。当時はまだジャンボ機はなく、今はもう廃機となったダグラスDC8によるアラスカのアンカレッジ回りの長い旅になった。
狭いDC8の機内で私はすぐにノートと鉛筆を取り出し、ヨーロッパ遠征中に三十項目を超えるテーマの開発スケジュール作りに取り掛かった。充実感があり、生々しく記憶が残っているうちが良い計画書ができる。帰国して一休みすると目分の気持ちが変わるかもしれないし、機内で計画書を作っておけば後で楽ができる。
昭和五十年に向けての大切な時期は、八月後半から来年三月までのシーズンオフだ。オフの間にどれだけ開発が進むかで来シーズンが決まる。私は開発日程を前倒ししようと決め、昭和四十九年十一月末までの三カ月間で、開発を完了させるようにした。
[写真:スズキの工場における2輪車の検査]
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〈44〉開発計画書 癖のないマシン造る
開発計画書は、DC8が羽田に着く数持間前に出来上がった。スタッフ全員の行動表、つまり、誰が、何を、いつまでにやるかの計画を綿密に作り上げたのである。興奮気味のせいか、私はコペンハーゲンから羽田までの十六時間、DC8の機内では一睡もできなかった。
開発計画表の最初の項目は、昭和五十(一九七五)年(私がレースグループ長になって二年目のシーズン)の目標だった。それは世界グランプリレースの四種目に参戦し、優先度の順に内容を変えたものだった。
優先度一位は、モトクロス世界GP五〇〇ccクラスでデコスタを世界チャンピオンにする。同二位は、モトクロス世界GP一二五ccクラスでG・ライア(ベルギ)を初代チャンピオンにする。これで市販レーサーRM一二五の販促に貢献する。同三位は、ロードレース五〇〇ccクラスでB・シーン(英)が三勝できる程度にする。世界チャンピオンは翌年狙いとする。
目標と優先度を明確にすることで気持ちがすっきりした。ロードレースマシンとモトクロスマシンは、外観はだいぶ異なるが、技術面ではまったく同じで、応用面が少し違うだけである。そこで構造の簡単なモトクロスマシンから手を付けて、得たノウハウをロードレースマシンに盛り込むことにする。その方が効率がよい。
開発のコンセプトは次の通りだ。(1)安心して走ってもらう(2)頑張らなくてもよいマシン(3)レース中に疲れないマシン。昭和五十年のシーズンに向けてスタッフ全員が始動したのは、前年の八月二十日ごろだ。この開発コンセプトは、裏を返せば“マシンに癖があってはならない”ということだ。どんなマシンであれ、特定の優れたライダーにしか乗りこなせないような偏りのあるマシンでは、大勢いるスズキのライダーが一様に速く走れないからだ。
車両重量は軽く、エンジンはスムーズで力強く、操縦性はニュートラルでなければならない。これらを高いレベルで造っておいて、あとはライダーの好み、得手、不得手に合わせて各部に微調整を加えればよい。例えば後輪のクッションであれば、ばねを少し柔らかくとか強めとか、ライダーの好みに合わせるのだ。ニュートラルで癖がなく、技術的レベルの高いマシン造りは、選手の安全を守りつつ、勝利する上での絶対的な条件なのである。
昭和四十九年の九月に、翌年度の世界グランプリレースカレンダーが発表された。私はモトクロスGP五〇〇ccクラスのスケジュールにまず注目した。
[写真:筆者を挟んでガストン・ライア(左)とロジャー・デコスタ]
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〈45〉前輪クッション開発(上) ミッコラ負かす戦術
昭和四十九(一九七四)年九月に、翌年のレースカレンダーが発表された。私はモトクロスGP五〇〇ccクラスのスケジュールにまず注目した。十二カ国全十二戦のシリーズ戦は、第三戦がフィンランドGPになっている。前年の世界チャンピオン、ミッコラはフィンランド人だ。ここでミッコラを負かすことができれば、作戦上有利と考えた。
フィンランドGPは、数万人の観衆すべてがミッコラを応援するという。彼はフィンランドの国民的英雄だから、当たり前だろう。マシンはスウェーデンのメーカーだ。レース当日は「ミッコラ、ミッコラ…」の大合唱が始まる。こうなると、ミッコラはアドレナリンが出て、元気百倍、勇気百倍、普段の能力以上の力を発揮する。こんな雰囲気の中でデコスタが勝てば、ミッコラは自信をなくし、後のレース展開は当方が楽になるはずだ。そこで私は、“フィンランドでミッコラをたたけ”という作戦を立てた。
では、どんな戦術で…。私はそれまでフィンランドGPの行われるモトクロス場を見たことがない。スズキチームの中からそのコースに行ったことのあるスタッフを呼び寄せ、状況を徹底的に聞き込んだ。
そこは、白樺(しらかば)林を切り開いて遣った常設の砂地コースで、十bぐらいの高低差がある難コースという。直線路も長くスピードが出るが、砂地のため、レース後半には相当路面は荒れてくる。そこまで聞いても、私にはフィンランドのコースがよく見えてこない。さらに突っ込んで聞いていくうちに、決定的な情報を得た。
それは、最終カーブの特殊性だった。カーブの右側は土手になっており、ライダーたちは土手に垂直に車輪を当て、車体を大きく左に寝かせて走るという。レース後半には、砂地が掘れて深いわだちができる。このようなカーブが二、三カ所あるという。ポイントはここだ!と私は思った。見たこともないヘルシンキのコースの勝負どころが何となく分かってきた。
勝負すべき二、三方所のカーブで、スピードを落とさず走破できるマシンを造れば、ミッコラより速く走ることができる。そのためには、クッション、それも前輪クッション(フロントフォーク)が大切だ。フィンランドでミッコラをたたくには、特殊な前輪クッションを開発するしかない。これでフィンランドでミッコラをたたくための“戦術”が出来上がった。
鉄人ミッコラのマシンでは不可能な走行ライン取りをデコスタには可能にして、彼を勝利させるためには、特殊な前輪クッションの開発は優先度ナンバーワンだった。
[写真:ロジャー・デコスタ(左)と筆者の長男・敏朗=1999年、浜松市]
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〈46〉前輪クッション開発(下) 身の回りからヒント
フィンランドでミッコラをたたく“戦略”と“戦術”が出来上がった。優先度一位の前輪クッションの改良だ。オートバイでは、フロントフォークと呼んでいる。
昭和四十九(一九七四)年当時のフロントフォークのクッションストローク(前輪が上下する長さ)は、十八センチから二十センチの間だった。しかし、フィンランド・ヘルシンキの難コースをもっと速く走らせるには、これでは不足ではないかと考えた。そこで、思い切ってクッションストロークを二十五センチと決めた。大きな凹凸を安全に速いスピードで走破するには、二十五センチは必要だろう。このフロントフォークは岐阜県のカヤバ工業に発注した。カヤバ工業の担当者には、ストローク二十五センチのフロントフォークのことを絶対に他言しないように頼んだ。私とカヤバ担当者二人だけの秘密とした。
技術開発を効率よく行うには、原理・原則が大切であることは以前に気付いた。しかし、いくら多くの原理・原則を知っても、それだけでは何もならない。それらをどう上手に組み合わせるかが次のテーマとなる。私はそれを自分の身の回りに求めた。
例えば、前後輪のクッションシステムの素晴らしいものを開発するとき、私は動物の足の動きをつぶさに見詰めた。サバンナでライオンに追い掛けられても、インパラはなぜ捕まらないほど速く走れるのか。あんなに低く遠くにジャンプしても、着地で転倒しないのはなぜか。そのように考えると、自分の身の回りには無数といっていいほどヒントがある。しかも、見ていて理解しやすい。スロービデオならなおさらだ。
昭和五十年、モトクロスGPが始まった。五〇〇ccクラスは、オーストリアGP、イタリアGPを終え、デコスタとミッコラは一勝一敗で第三戦フィンランドGPを迎えた。私たちは初めて、ストローク二十五センチのフロントフォークをデコスタのマシンに取り付けた。
レースはサッカーと同様、前半・後半それぞれ四十五分ずつ二回のレースが行われる。第一レース、デコスタとミッコラの争いはし烈を極めた。幸いにもデコスタが勝った。一時間後に第二レースが始まろうとした。と、その時、デコスタのマシンにトラブルが発生した。スタート合図の直前、クラッチワイヤが切れた。マシンはエンストした。ギアをニュートラルにしてエンジンをかけてスタートしたが、先頭をいくミッコラはすでに三百b以上も先をトップで爆走していた。
激しく追い上げるデコスタが、ここで鬼になった。
[写真:身の回りからヒントを得て、前輪クッションを改良した筆者]
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〈47〉作戦成功 精神的に追い詰める
トップのミッコラの後ろを四十台近いマシンが走る。最後尾からデコスタが追う。集まった数万人のフィンランド観衆すべてが、ミッコラを応援する。
鬼となったデコスタは猛然と追い上げた。次々とほかを抜き去り、スタート後三十五分ぐらいしてトップをいくミッコラに追い付いた。しかし、デコスタはすくには追い抜かなかった。追い付くまでの間にデコスタは作戦を考えたと、後に語った。
「レース中、いろいろなことが頭を駆け巡りましたが、走るにつれて、クラッチが使えないことがハンディキャップに思えないくらい気分が良くなってきました。タイトルを取り戻すには、何か大きいことをしなくてはならないことが分かってきました」と。二、三周ミッコラの後に付いたデコスタは心に決めた。
「私はピッタリとミッコラに付いて、勝負のポイントがくるのを待ちました」
右側が土手になっている左カーブの一番外側の最速の走行ラインにミッコラが入ったその瞬間、デコスタは相手の上側のラインを走って、続くジャンプでミッコラの頭上を飛び越えた。そして彼の前に着地した。ひるんだミッコラは懸命に迫ったが、激戦の未、デコスタが僅差(きんさ)で勝利した。
第一レース、第二レースともにデコスタが勝った。フィンランドでミッコラをたたけ、の作戦・戦術は成功した。
翌朝、ヘルシンキの新聞は一面トップに写真入りで“歴史に残る名勝負”と報じた。私は、“今年はこれでいける”と確信した。デコスタは勇気百倍・元気百倍の“鉄人ミッコラ”を大勢の地元ファンの前で完全に打ちのめした。第一レース・第二レースを狙っていたであろうミッコラは、相当な精神的ショックを受けたはずだ。実は、それが狙いだったのだ。
あの歴史に残るデッドヒートの中で、デコスタが本気で大勝負をかけたのは、、たった一回だけだった。その一回のために、わずかコンマ一秒のためにカヤバと極秘で造ったフロンフォークは大きな威力を発揮し、シーズン後半の流れを変えることになったのである。
後にデコスタはその時のことを、私に静かな口調で話してくれた。「多分、今までで一番のレースであり、この勝利をきっかけに自分の連勝が始まりました。そうであっても、ミッコラは偉大なコンペティター(ライバル)であり、すごい人だと言わざるを得ません」
「なぜ連勝ができたのか」と尋ねると、「ミッコラはフィンランドGPの後、ナーバスになった」と答えた。その時私は、当初の作戦と戦略は成功したと思った。
[写真:モトクロス史上に残る名勝負となった1975年のフィンランドGP。スズキのロジャー・デコスタがハスクバーナのハイキ・ミッコラを制した]
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〈48〉RM125大ヒット 覇者のマシンと類似
GPレース中の私は、浜松市のスズキ本社にいて情報のキャッチャー役をやるのが常だったが、昭和五十(一九七五)年はシーズン後半の六月中旬、ヨーロッパに飛んだ。昨年とは違って、全四チームの戦いぶりを、それぞれ一戦ずつ見る計画だ。
日程は、六月二十二日=西ドイツ・モトクロス一二五cc▽同二十八日=オランダ・ロードレース五〇〇cc▽七月六日=フランス・モトクロス二五〇cc▽同十三日=西ドイツ・モトクロス五〇〇cc。
まず六月二十二日、モトクロス一二五ccクラス、西ドイツGPが行われる場所に着いた。広大な農地の中にあるこのモトクロス場は比較的平らだ。なぜか、コースの脇に真っ赤に色づいたサクランポをたわわに実らせた木が一本だけあった。私は、大きくておいしそうなのを何個か失敬した。とてもおいしかった。ヨーロッパの六月は、木々に花が咲き、むせるような新緑であり、村の人々はいつもニコニコして、とても親切だった。
モトクロス一二五ccGPに参戦するメーカーは、日本のスズキ、ホンダ、ヤマハ、カワサキの四社。ヨーロッパ勢は、ツンダップ(西ドイツ)、CZ(チェコ)、ハスクバーナ(スウェーデン)、ブルタコ(スペイン)であり、合計八社のマシンが覇を競うことになった。スズキの選手は、G・ライア(ベルギー)と渡辺明(栃木県)の二人だった。
昭和五十年の一二五ccクラスは全十二戦で、私が現地を訪れるまでにフランスGPを皮切りとして六戦を戦っていた。そして、ライアは六戦十二レースのうち九レースで優勝し、世界チャンピオンをほぼ確実にしていた。レースが始まると、ライアが圧倒的な速さで第一、第二レースを制した。渡辺は三位と健闘した。
その後、ライアはチェコGPで優勝して、世界チャンピオンを獲得した。チェコGPで優勝したライアには、優勝杯として美しいクリスタルのトロフィーが与えられた。チェコ伝統のハンドカットによって繊細な実しさが醸し出されている。ライアは、その美しいつぼを私にプレゼントしてくれた。それは今も私の家にあって、いつも素晴らしい輝きを放っている。
おかげで、その年の春先に発売したモトクロス用市販レーサーRM一二五が大ヒットした。何しろ、ライアがチャンピオンを取ったマシンと寸分違わぬ形状と色だし、アメリカ、ヨーロッパ、それに日本から注文が殺到した。予算申靖で借金した三億七千万円は完全に返した。
[写真:1975年のモトクロス125ccクラスでチャンピオンとなったガストン・ライアの日本でのサイン会]
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〈49〉勝負への執着心 事故後もレース出場
先週、モトクロス一二五ccクラス、西ドイツGPを観戦した後、私はオランダへ向かった。昭和五十(一九七五)年六月二十八日のロードレース五〇〇ccクラス、オランダGPに参加するためだった。
私はロードレースチームメンバーたちと、二台のバントラックでアッセンサーキットに向かった。アッセンまで五十ロぐらいのところで、予想さえしなかった人の姿を発見して私は驚いた。
それは、あのバリー・シーン(英)だったのである。シーンは後にロードレースGP五〇〇ccクラスの世界チャンピオンとなったスズキチームのエースだ。彼は昭和五十年三月、アメリカデイトナビーチスピードウェイ(フロリダ)での走行テスト中に、時速三百キロ近いスピードで転倒して十数カ所骨折するという重傷を負った。病院に見舞いに行った私は、あまりのひどさにその年のGPレースヘの彼の参加をあきらめていた。
アッセンサーキットに向かう高速道賂の走行車線を走っていると、高速レーンを走る一台のロールスロイスがクラクションを鳴らす。見ると、なんとそれがシーンだったのである
サーキットのピットに着くと、シーンは満面の笑顔で私たちを迎えてくれた。よく聞いてみると「どうしてもGPに出たいので、いったんデイトナの病院を退院した後、ロンドンの病院に移った。ギプスのため硬くなった筋肉をほぐすため、イタリアの整形外科の元へ飛行機で通い、全身麻酔しながらマッサージをしてもらった」と言う。
骨はどうかと聞くと、一枚の大きなレントゲン写真を示して、「左大腿(だいたい)骨が幾つかに折れており、管状に折れた骨を集めて、尻の方から通したステンレス棒にボルトを締め付けてあるから大丈夫だ」と、笑環で説明してくれた。今回のレースに出て、もし転倒でもしたら、左足は切断することになるともいう。それでも、事故から三カ月しかたっていないのに、どうしても今度のレースに出るという。
私は、世界一になろうと決心している人間の気持ちの強さ、勝負への執着心に感心するばかりだった。私は彼のことがいとおしくなって、マシンの改良を何でもやらねばと恩った。
六月二十八日土曜日の午後、十四万人の大観衆の中、五〇〇ccクラスのスタートが切られた。ごう音とともに、一団となってスタートした。レースはヤマハのアゴスチーニがリードする形で進んだ。シーンはそのすぐ後ろについた。レース中何度も順位を入れ替え、最終周に最終コーナーに二人並んで現れ、シーンがタイヤ半分の僅差(きんさ)で勝った。このGPレース初勝利は、生涯忘れられない“記念”として私の中にある。
[写真:筆者(左)とパリー・シーンの友情を示すスナップ=1975年秋]
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〈50〉普通にやれ マシンを完全状態に
モトクロス二五〇ccフランスGPの視察を終え、私は、オランダ・デンハーグにあるスズキチームの基地に戻った。ベルギーGPを済ませたロードレースチームの方が、先に基地に着いていた。彼らは次のレースの準備を終えようとしていた。
バリー・シーンのメカニック(整備士)を務める岡本満が、「次のレースの作戦はどうしますか」と聞いてきた。私は即座に、「普通にやればいいよ」と答えた。「普通でいいんですね」と、岡本は相棒の松井忠男と笑顔でメルセデスベンツの箱型トラックに乗り込んだ。目指すはスウェーデン・アンダーストープである。
後になって松井は、「普通にやれというのは、ものすごいハッパですよ」と私に話してくれた。バルト海をフェリーで渡り、スウェーデン・アンダーストープサーキットに向かう車中で、「横内さんの言う、普通にやれとはどういうことか?」と何度も話し合ったようだ
結局、二人が得た結果は、“パーフェクトにやって、勝て”だった。私の気持ちに気付いてくれたのである。サーキットという現場、マシンと限られた補給部品で、マシンの戦闘能力を最高の状態にまで仕上げることがパーフェクトであり、これが“普通”なのだ。
当時、私の“普通”とは、一般の普通とは違って、“最善を尽くしてパーフェクトな状態をつくり出す”ことだった。そのことによって不可能が可能になる。そうしないとGPレースで世界チャンピオンは取れない。
メカニックたちは金曜日と土曜日に行われる公式練習で、アンダーストープ地方のその時期の気候に合わせ、エンジンの調子が最高の状態になるように調整を済ませた。サーキットの路面に最もマッチした前後輪クッションを調整し、バリー・シーンが実走行して彼が納得するレベルまでのマシンに成長させた。これでスズキのマシンの総合性能は、持てる力を最大限に発揮できるコンディションになった。つまりパーフェクトの状態になったのである。
レースはバリー・シーン(英・スズキ)、フィル・リード(英・MVアウグスタ)、ジャコモ・アゴスチーニ(伊・ヤマハ)による壮絶なドッグファイトとなった。三人の順位が毎周のように入れ替わる。しかし、レース中盤からバリー・シーンが二人を引き離し始め、そのままぶっちぎりで優勝した。
このように、最善を尽くしてマシンをパーフェクトの状態にするのが“普通”であり、ロードレース五〇〇ccチームは、普通にやってスウェーデンGPでバリー・シーンを優勝に導いた。
[写真:RG74で1976年に世界チャンピオンとなったパリー・シーン]
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