世の中の流れを変えよう
元スズキ二輪車設計者 横内悦夫
(宮崎日日新聞連載 2008年4月12日 〜 2008年4月22日 掲載分) 4/9 |
〈31〉原理・原則 後輪クッション改良
自分は自然界の法則の中で仕事する立場にある。一周走るのに要する時間、つまりラップタイムを上げるために、原理・原則を大切にした開発をしよう。これまでのやり方では過労死してしまう。本当にそう思うと怖くなった。原理・原則を守るという当たり前のとに気付いて、私は胸がスッとした。医師の言う“気持ちのゆとりとは胸がスッとする”ことかもしれないと思った。
昭和四十九(一九七四)年四月七、八の両日、全日本モトクロス選手権第一戦は茨城県神栖市矢田部で行われた。日本自動車研究所高速周回賂内のフラットな草原に造られたモトクロスコースだ。私にとっては初のレース参加である。それまではモータースポーツファンの一人としてレースを見物したことは何度かあるが、レースチームの責任者としての参加は初めてだ。
レース場に着くと、まず各メーカーのビット(整備用のテント)を見て回った。ヤマハ、ホンダ、カワサキともにそれぞれ特徴があるが、中でもヤマハの後輪クッションの仕組みが違っていた。ベルギー人の特許を基本としたもので、初めて見る構造だ。ヤマハはこれを“空飛ぶサスペンション”と大々的に宣伝していた。
結果は、一二五cc、二五〇ccクラスともに惨敗を喫した。スズキは増田耕二(岡山県)が五位に入るのがやっとで、ヤマハチームの圧勝だった。増田耕二が遅いのではなく、ヤマハのマシンが速かったのだ。
私はレース前日の公式練習とレース当日は、コースサイドに出て、幾つかの地点でスズキとヤマハのマシンがどう違うのか観察していた。ヤマハの良い点は、悪路で上下に跳ねても左右へのぶれが少なかった。その分、スズキよりもヤマハの方が安定性に優れていた。
これは三月にアメリカから届いたデコスタの手紙とよく一致する。「よし、後輪クッションの改良を急ごう」と私はテーマを一つに絞った。次の九州大会(福岡県・星野村)までには二週間ある。この間に何とかしようと、浜松の本社に帰るとすぐに改良に取り掛かった。
当時は、コンピューターで運動の数値解析をする技術は確立されていなかった。そこで私たちは幾つかの仮説を立てて、それらを手っ取り早く実機で試すことにした。
次の第二戦まで時間もないので、クッションの改良は後輪が上下に動く量(ストローク)を今までの十七センチから二十一センチへと大きくして、路面からのショックを、柔らかく吸収しやすくするアイデアが有力となった。
[写真:原理・原則を最も大切にして開発したのが宇宙ロケットだ]
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〈32〉開発テーマ(上) ライダーの安全守る
私たちが赤ちゃんを抱っこしてピクニックに行くとしよう。抱いて歩くときは、赤ちゃんの安全を守る。河原ではひざや足首のクッションを柔らかく使って、赤ちゃんを衝撃から守る。
モトクロスマシンも悪路走行中の安定性を増してライダーの安全を守らなければならない。そのために、後輪クッションの動き(ストローク)を大きく、柔らかくしてマシンがソフトに動くようにすればよい。人間や動物とまったく同じで、これがクッションの原理・原則なのだ。
いろいろ試して、後輪ストロークを二十一センチにしたものが良いことを確認した。二五〇ccのマシンを一台だけ造った。乗るのは増田耕二に決めた。
全日本モトクロスシリーズ第二戦に参加するため、四月十九日の午後に福岡県八女郡星野村に着いた。福岡県のほぼ中央にあり山間地だ。気候が良く、ブドウやイチゴがとれ、八女茶でも有名。その日はゆっくり温泉に入り、翌朝、レース場に向かった。
星野村に造られた特設コースは、急な上りと下り坂が多い上に路面は硬く、しかも荒れており、モトクロスマシンにとっては極めて厳しい。
レースは四月二十一日の日曜日に行われる。公式練習は金曜日と土曜日。私はコースのあらゆる場所に出掛けて観察した。二五〇cc新型マシンを駆る増田耕二の走りとライバルメーカーのマシンの走りを比べるためだ。
後輪の動きと車体の安定性を中心に各車を比較してみると、スズキは以前より確かに向上している。見ていて違いがはっきり分かる。しかし、ライバルメーカーも二週間でマシンを改良したのであろう。第一戦のときよりも良くなっている。
私はコース上でマシンが振られるのが、マシンのせいか、路面のせいか、それともライダーの腕のせいかを見極める努力をした。観察場所は、くぽみであったり、急坂路であったり、ラップタイムに影響するポイントとなる地点であり、これらの観察で、次々と開発テーマを見いだすことができた。
“走り”を観察することで、開発テーマは幾らでも出てくるが、それには一つの大切な前提条件がある。それは、“ライダーに怖い思いをさせない、楽に安心して走らせよう”とする開発者としての気持ちだった。
レースで一番勝ちたいと思っているのはライダー本人だ。だから彼らの立場
になって走りを観察すれば怖い、痛い、疲れる…といった場面を見つけやすい。それはそのまま開発テーマになる。解決が技術的に可能かどうかはどうでもいい。まずはテーマを列挙するのが先だ。
[写真:動物の現が赤ちゃんを守るように、モトクロスマシンもライダーの安全を守らなければならない(宮崎市フェニックス自然動物園握供)]
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〈33〉開発テーマ(下) 競馬に大きなヒント
テーマが、技術的に解決可能かどうかはどうでもいい。まずはテーマを列挙することが大切だ。可能であればすくに取り組めばいいし、無理だと思われることは、それに挑戦するのが本当の開発である。無理と不可能は同じではない。できそうにないことをやるのが開発者の仕事だと思う。そこにのみ進歩がある。“ライダーを楽にさせる”という気持ちで観察すれば、そこには有益なヒントが宝の山となって現れてくる。福岡県八女郡星野村での公式練習を見るうちに、このような多くの収穫を得ることができた。四月二十一日、本番レースの日曜日は朝から台風並みの大雨で、結居レースは中止となった。レース中止のアナウンスの後、増田耕二選手は私のところに来て、「今日はやりたかった」と言った。
本人も何か期するものがあったのだろうし、マシンもだいぶ良くなっているんだなと思った。“後輪ストローク二十一センチ”の車体は、走行性能を大きく向上させたようだ。そうだ、この新型車体をベルギーのデコスタのもとにすぐ空輸しよう。私はそう決めた
操縦安定性を良くするヒントはないものかと考えるようになっていた持、あるテレビ番組にくぎ付けになった。それはアフリカの自然を紹介する内容で、いろいろな動物がいっばい出てくる。当然、弱肉強食の世界だからさまざまな争いがある。その争いとグランプリレースがオーバーラップして私の目に映ったのだ。弱い動物は弱い動物を目がけて全で追う。弱い動物は全力で逃げる。そこには非常なまでの死闘がある。
追う方にも追われる方にも、両者には共通するものがあった。それは、全力で走っているにもかかわらず、絶対と言っていいほど、彼らが転ばないことだ。同様に走る二輪車は転ぶのに、動物たちはなぜ転ばないのか?
二輪車と動物、何が違うのか?脚だろうか?競馬の実況整もよく見た。特にサラブレットの脚に注目した。サラブレットは後ろ足で強く蹴(け)ると馬体は一瞬空中を飛び、前足から着地する。スロービデオでよーく見ると、意外なことに気付く。着地した瞬間、馬のひづめのすぐ上の関節部が非常にソフトにショックを和らげ、続いて関節部がスムーズに動いて、最後は強く(ストロング)馬体重を受け止める。
つまり、サラブレットの脚は着地の初期はソフト(SOFT)で、途中スム
ーズ(SMOOTH)で、最後は強く(STRONG)受け止めている。ソフトでスムーズでストロング、すなわちそこには、三つのSが見事なまでに存在している。これは大きなヒントだ。
[写真:サラブレットの走りにはソフト、スムーズ、ストロングの三つのSが見事なまでに存在している]
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〈34〉レース(上) 自分で流れをつくる
ソフト、スムーズ、ストロングの三Sは当然、自分たち人間の脚も三Sが可能なようにできているのだと気付く。
サラブレッドの脚の動きに学んだこのことこそが、操縦安定性を考える上での原理・原則だろう。福岡県星野村の公式練習で良い結果を得たので、モトクロスグランプリ五〇〇ccクラスのデコスタヘ、さらにロードレースグランプリ五〇〇ccクラスのB・シーンのマシンヘと展開の幅を広げた。
毎年、世の中の変化に遅れないよう心掛けていた。ところが、レースの世界は違う。レースの世界は毎週変わっているではないか。一週間でこちらもライバルも速くなっている。ということは、毎日何らかの進化をしているわけである。
そのころの私はいつもライバルを気にしながら、今度のレースはどうか、この次はどうかと常にびくびくしているような、いわば負け犬根性のような気持ちになっていた。レース初経験のせいもあっただろうが、自信のない自分が情けないし、やってもやっても負けていた。
変化についていくのがこんなにつらいとは、想像もしていなかった。このままでは、もうやりきれない。そんな毎日の中、これをはね返すには、自分で流れをつくるしかないと考えるようになっていた。
国内のモトクロス(全日本選手権)を第三戦まで戦ってきて、振り返ってみると、われわれには開発の勢いはついている。このままの勢いで右上がりに良くしていけば、ライバルに追い付く日が必ず来るはずだ。追い付き追い越した持、そこから先はレース界の流れをわれわれの手で変えることができる、と強く思った。
このようなことが分かってくると、何だか私の中に自信のようなものがわいてきて、いつの間にか相手の動向にびくつく負け犬根性が消えていた。レースだから勝つしかない。世界タイトルを取ればよい。他言はしなかったが、開き直るような気分になると私の胸はスッとした。
開発の勢いを保つ中、ついに記念すべき日がやってきた。昭和四十九(一九七四)年五月、年に一度の全日本モトクロス・グランプリレースである。富山県午岳スキー場特設コースに、すでに亡くなられた高松宮さまをお迎えしての日本グランプリだ。私たちはこれに向けてもマシンの改良を続けた。
星野村で得たノウハウを取り入れた車体を新たに造り直して、一二五cc、二五〇ccすべてのマシンに乗るライダーに用意した。これらの車体の操縦性、安定性ともに向上していた。
土曜日の午前に一二五ccクラスの第一レースが一斉にスタートした。増田耕二がトップで飛び出した!
[写真:増田の走りは会場をわかせた]
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〈35〉レース(中) 大観衆の前で初優勝
日本グランプリレースは土曜日に一二五ccクラスが二回、日曜日に二五〇ccクラスが二回の合計四回のレースがある。一回のレースは、スタートして三十分プラス二周の約三十五分で行われる。
土曜日の午前に一二五ccクラスが一斉にスタートした。増田耕二がトップで飛び出した。第一コーナーでもトップをキープし、ぐんぐんとペースを上げる。長い坂路を飛ぶように走っていくスズキの黄色いマシンは、とても速かった。三十五分間のレースは、二位以下を大きく離してゴール。自分の目の前で、自分のマシンが、そして自分のライダーが高松宮さまの前で、そして多くの観衆の前で見事に優勝したのを初めて見た。ようし、やったぁ!
午後、一二五ccの第二レースが始まる。スタートラインについた増田の僚友の小田切信雄は、いつになく気合が入っている。両肩を上下にゆするなどいつもと違う。何かやってくれそうな気配が伝わってくる。
案の定、スタートの合図が出て真っ先に飛び出したのが小田切だ。増田がすぐ後に続き、第一コーナーをスズキの二台が勢いよくクリアしていく。二周目、三週日とすごいスピードで二人のランデブー走行が続く。
三位以下のライバルたちをどんどん引き離していくではないか。二台の黄色いマシンがくっつくようにして牛岳の緩い上りこう配の直線コースを猛スピードですっ飛んでいく光景を初めて目の前に見て、私は感動した。ランデフー走行は最後まで続き、そのままゴール。スズキのワンツーフィニッシュとなった。
翌日曜日は朝から晴れ上がり、気温は三〇度を超え、前日にも増して暑い。二五〇ccクラス決勝の日だ。土曜日に行われた一二五ccクラスの二レースを全力で走った増田耕二と小田切信雄は相当疲労していた。そのためだろう、午前の第一レースはヤマハの瀬尾勝利に負け、増田は二位に終わった。
私は無理もないことと思った。しかし、あと一レースある。昨日の一二五ccを含めて三レースを消化していた増田耕二は、二五〇ccの第二レースに向けてストレッチを始めたが、疲労はさらにたまった様子で、私は気の毒で声を掛けるのも遠慮したくらいだ。整備士たちは第二レースのための整備をすでに済ませていた。
日曜日の午後、第二レースのスタートが切られた。まず飛び出したのがホンダの吉村太一。これに続くのがヤマハの瀬尾だ。増田もスタートが決まって瀬尾の直後に続いた。三十分プラス二周の長丁場のレースだ。しかも三〇度を超す暑さは過酷だ。
[写真:独走する増田]
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〈36〉レース(下) 自然に浮かんだ笑み
モトクロス日本グランプリ二五〇ccクラスの第二レースは、三〇度を超える中で始まる。スタートすると、ホンダの吉村太一とヤマハの瀬尾勝利が先行し、スズキの増田耕二は三位につけた。しかし、吉村と瀬尾は相次いで後退。今度はヤマハの杉尾良文がトップに立つ。増田は疲労のせいか、少しずつ離されていく。二五〇ccでは勝てないのかと私は思った。
ところが、スタートして二十分くらい経過したころから、増田の目が輝いてきた。私の目前を走る時、ヘルメットの奥に彼の鋭い目つきがはっきり見てとれる。コース全周に集まった大観衆からの声援がひときわ大きくなった。増田の走りが変わった。トップとの差がどんどん詰まってきた。増田は力を振り絞っている。
私は怒鳴るような大声を彼に飛ばした。私の怒鳴り声に、小さく二度うなずいた。スタートして二十五分が過ぎ、タイトな左カーブに差し掛かった時だ。増田は勝負とばかり、一瞬のすきを突いてカーフの内側の、それまで杉尾が走っていた走行ラインに、先にマシンを滑り込ませた。
杉尾はやむなく外側ラインを走らざるを得なくなった。杉尾がひるんだのである。その間、すきを縫って増田はついにトップに立った。声擾が一段と大きくなる。増田は最後の力を振り絞ってそのままゴール。スズキのピットは爆発でもしたかのように喜びにわいた。
表彰式が始まると、私は最後部から見守った。最優秀選手に増田が選ばれた。一二五cc、二五〇ccの両クラスともに、一位と二位に入った最も優れた選手だったし、特に最後の二五〇cc第二レースでの彼の頑張りは多くの観衆や大会関係者に感銘を与えた。
表彰式が行われている時、私は人けのなくなった午岳のコースを見上げた。すると、新たな感動と満足感がわいてきて、自然に笑みが浮かぶのを覚えた。
表彰式が終わって、私は増田に二五〇cc第二レースの感想を求めた。すると、彼は「スタート後十五分ぐらいして、疲労のあまり体に力が入らず、杉尾に抜かれ、引き離された。その時、“おれもエライけどあいつもエライはずだ。ここは我慢比ベだ”と思った途端、自分に力がわいてきた。そうして頑張ったら、杉尾の背中がだんだん近くなってきた。するとコース全周にいた観衆がワーワーと声援してくれたので、より一層力が出てきた、中でも構内さんの声が一番大きかった」と、うれしそうに答えてくれた。この二日間で増田の体重は四キロも減った。
[写真:モトクロス日本グランプリの勝利を伝えたスズキスポーツニュース]
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〈37〉記念すべき日 ライバル負かす実感
昭和四十九(一九七四)年一月から四カ月間、多くの種類の開発テストを行ってきた。そのほとんどのテストを担当したのが増田耕二だった。彼とともに開発した新しい内容を取り入れた部品は、すぐに世界GPを走るR・デコスタのもとへ空輸された。
増田は、昭和二十三年岡山県生まれ。昭和四十七年にスズキに入社し、その翌年に全日本選手権でランキング三位。非常にスピードのある選手で、テストライダーとしても優れていた。小田切信雄は青森県出身。昭和四十八年にランキング五位となった、瞬発的なスピードの持ち主だ。
昭和四十九年五月の全日本モトクロス・グランプリレースで、増田と小田切は四レース中三レースを制した。私にとって最もうれしかったのが、この勝利だ。
三月から国内外でモトクロスやロードレースが始まると、二位はあっても優勝がなかった。ライダーが悪いわけではなく、マシンの総合性能がほかよりも劣っていたためだった。
「その日のことはその日にやる」 「原理原則を大切にする」やり方で毎日を励んできた。レースグループ員たちも当初は緩んでいた面もあったが、外国人ライダーが来た一月下旬あたりから、みんな一生懸命になった。動きが速く、全体の意識とチームワークも非常に良くなった。
第一回全日本モトクロスレースで惨敗し、第二戦では新型後輪クッションシステムの改良で、ライバルのマシンの性能に追い付くぐらいにまでなった。その時私は、“スズキには勢いがついている。勢いを保てばいつか勝てる”と思うようになっていた。追い付ける日を楽しみにしていたのである。
そんな中での第四戦、高松宮さまをお迎えしての全日本グランプリで優勝した。この優勝は単なる一勝ではなく、ライバルに追い付き追い抜いたという実感が伴うものだ。勝てばレース界の流れを私たちの手で変えられる。
私はこのことこそがうれしかったのである。昭和四十八年から“空飛ぶサスペンション”を投入したヤマハは、この年の世界モトクロスGP二五〇ccクラスでメーカータイトルと個人タイトルの両方を取り、まさに世界チャンピオンとなっていた。それを負かしたのだから、スズキのマシンの総合性能がその上になった証しになる。
私たちの開発の勢いが、ついに彼らをつかまえたのだ。これからのレースの流れを変えるのは、このオレたちの番だ。私た
ちにとって新しい記念すべき日、それがこの全日本モトクロスGPである。レースマシン開発を手掛けて五カ月と十九日目だった。
[グラフ:レースシーズン中も絶えずマシンの改良を:行う。筆者は上昇カーブに着目して勝機を見いだした]
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〈38〉世界GP 鳥肌が立つスピード
昭和四十九(一九七四)年、スズキは世界グランプリレースの三種目に参戦していた。モトクロス五〇〇ccと二五〇ccクラス、初参加のロードレース五〇〇ccである。それぞれ専門のチームをつくり、別々にヨーロッパを転戦していた。このうち、ロードレース五〇〇ccは参加初年度ということもあって、信頼性を高めること、ライバルチームとの対比データを取ることに努めた。
シーズン前半は、私は浜松の本社にいて、各チームの情報や要望を集め、対策設計、部品の手配、モトクロスやロードテストコースに通う毎日であった。
しかし、世界グランプリに勝つには、本場のレースを見る必要がある。モトクロスでの成果が上がってきたことにも助けられ、多少なら時間がとれると見込んだ私は、世界グランプリレースシリーズも終盤戦のヨーロッパに出掛けることにした。
七月二十一日=スウェーデン・ロードレース・五〇〇cc▽同二十八日=オランダ・モトクロス・五〇〇cc▽八月四日=ベルギー・モトクロス・五〇〇cc▽同十一日=スウェーデン・モトクロス・五〇〇cc。出張期間を四週間として、ロードレース、モトクロス五〇〇cc、モトクロス二五〇ccレースを毎週一回ずつ効率よく視察する日程でヨーロッパに出掛けた。
まず、七月二十一日に行われるロードレースを見るため、スウェーデンに向かった。スウェーデンGPは、首都ストックホルムの西南約五百キロのアンダーストープの郊外にある空港で行われる。滑走路を一部利用したサーキットなので、飛行機が来ると、公式練習を中断し、着陸させる。
私がアンダーストープサーキットに着いたのは、公式練習の終わった土曜日の午後だった。スズキチームの監督に様子を尋ねると、ヤマハのアゴスチーニ(イタリア)、MVアウグスタ(伊)に乗るリード(英)が速いという。しかし、わがB・シーンも、ほかの強豪に負けないタイムを出していると報告してくれた。
アゴスチーニ、リードといえば、数多くの世界チャンピオンを取った世界のスーパースターである。まだ一勝もしていないスズキチームは、不安な気持ちで七月二十一日の日曜日を迎えた。
スタートシグナルが青になった。好スタートを切ったB・シーンは二、三番目で第一コーナーを曲がった。シーンはアゴスチーニよりも前にいる。われわれのいるピットロードの前をグランプリマシン二十六台の大集団がごう音を発しながら通り過ぎるスピードは非常に速い。初めて見る世界グランプリロードレース五〇〇ccクラスのすごさに、私は鳥肌の立つ驚きと興奮を覚えた。
[写真:レースシーズンに向け改良されたロードレース用のRG74型(500cc)]
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〈39〉転 倒 B・シーン全身打撲
スウェーデンGPで世界グランプリレースのスタートを初めて見て、そのすごさに驚きと興奮を覚えた。
と、次の瞬間、場内放送のアナウンサーのボリュームが急に大きくなった。
「最終右カーブでB・シーン転倒! 同持にアゴスチーニも転倒!」と大声で伝えている。まだ一周もしないうちの出来事だ。ビットにいた私たちは、あぜんとしたまま声も出なかった。いったい何が起きたのか。しばらくしてピットに帰って来たB・シーンは全身に打撲を負っていたが、骨折はしていない。大きなけがでないのが不幸中の幸いだった
「どうして転んだんだ?」と尋ねると、「コース上のオイルに乗って後輪が滑った」と言う。転倒してコースアウトし、グリーンベルトを転がってフェンスを飛び越え、サーキットに隣接する野菜畑まで飛ばされたという。ロードレース用の革ツナギは泥だらけになっていた。それだけではない。B・シーンのすぐ後ろに付いていた、ヤマハのアゴスチーニを転倒に巻き込んでしまった。
アゴスチーニは一九六〇年代にMVアウグスタ(伊)不動のエースとして三五〇ccと五〇〇ccで勝ちまくった後、ヤマハに移籍した超大物だ。もちろん、本人にも気の毒だが、ヤマハさんに大変申し訳ないことをしてしまったわけである。
私は早速、ヤマハのピットを訪れ、最高責任者の畑則行氏(後のヤマハ車体社長)に会い、「申し訳ないことをしました」と謝った。すると佃氏は「いやぁ、どういたしまして」と、明らかにつくった笑頭ではあったが、私の言葉に応じてくださったので、実のところホッとした。
スウェーデンGPはP・リードが優勝、ボネラが二位と、MVアウグスタ(伊)がワン・ツー・フィニッシュを取った。
その前日の土曜日、アンダーストープに向かう途中、私はデンマーク・コペンハーゲン空港の待合室にいた。そこで、ヤマハの佃氏とばったり出会っていた。
両手いっぱいに補給パーツを持った私の頭を見て、「お手柔らかに」と、あいさつをくださった。「いやぁ、こちらこそ」と答えたが、何せ相手は世界チャンピオンを擁するチームの総責任者である。こちらはグランプリ新参者の意識からだろうか、私は少しドギマギしていた。
いやいや、これじゃいけないぞと自問自答の末、得た結論は“負け犬になるな”だった。
[写真:1974年の500ccクラスでスズキはロードレースGPへ復帰した。写真はその年のRG74とB・シーン]
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〈40〉ライバル
激しいタイトル争い
スウェーデンGPでのB・シーンの思わぬ転倒で、スズキチームのスタッフたちは、とても寂しい気持ちになっていたようだ。
レースが終わって、トラックで回収されてきたマシンは見るも無残な姿になっていた。アルミの燃料タンクは大きくへこみ、泥に汚れ、スタート前にピカピカだったマシンは見る影もない。元に戻すのは大仕事だ。寂しく肩を落としながらピットの後片付けが終わると、チーム監督の村井義彦が私のところへやって来た。そして、「次のレースの参加はどうしますか」と問う。
詳しく聞くと、スウェーデンGPの一週間後に行われるフィンランドGPには、行きたくないという内容だった。B・シーンが全身打撲のためにフィンランドGPに出場できなくなって、エースライダーを欠くというのがその理由だった。
彼らはすっかりやる気をなくしてしまっていた。エースライダーを欠くことになったのだから、彼らの心情を考えると無理もないと思ったが、それでも私は村井監督に「今、われわれに最も不足しているのは“経験”だ。フランスGPでは二位に入ったし、マシンの性能がそんなに劣るわけではない。J・フィンレーで出場し、グランプリレースを一つで多く経験しよう。上位に入賞しなくてもいいから、来年につなくためにも、フィンランドGPへ行ってくれ」と、次のグランプリレースへの出場を指示した。私のこの言葉に村井は気を取り直したのか、「はい、分かりました」と、笑顔が戻った。
ロードレースのスウェーデンGPを観戦すると、私は翌週のモトクロスGP五〇〇ccクラスを観戦するため、オランダに飛んだ。スズキのライダーはデコスタとウォルシンクの二人。最大のライバルは、ハスクバーナ車を駆るハイキ・ミッコラ(フィンランド)だった
第八戦のアメリカGPまでの得点は一位がミッコラの百四十四点、わがデコスタは百三十九点の二位につけていた。シリーズ前半に連戦連勝を続けたミッコラを、マシンの改良が進んだことでデコスタが退い上げたが、まだ五点の差をつけられていた。
昭和四十九(一九七四)年当時の得点は、レースごとに一位十五点、二位十二点、三位十点と続き、十位が一点だ。これらの得点のうち、上位十二レースを有効得点として、その合計でチャンピオンが争われる。 昭和四十九年のモトクロスグランプリは終盤戦に入り、スズキ車とハスクバーナ車、デコスタとミッコラの個人タイトル争いが、ますます激しさを増していた。
[写真:自らドライバーを持ち、マシーンを調整するデコスタ(右)と、それを見守るウォルシンク(日本にて)]
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