世の中の流れを変えよう
元スズキ二輪車設計者 横内悦夫

(宮崎日日新聞連載 2008年4月2日 〜 2008年4月11日 掲載分) 3/9

〈21〉新エンジン開発 (中) 製作日程を大幅短縮

  新エンジンでは、排気量は若干上げても最大馬力は下げることにし、その代わりエンジンの低・中回転域の回転力(トルク)は二、三割向上させる。これにより、コーナーからの立ち上がり性能をよくしようという狙いである。
 昭和四十九年当時はタイヤの性能や後ろのクッション(リヤサスペンションシステム)が今ほどよくなかったので、エンジンの出力を抑え気味にしないと、タイヤの空回りが起きた。このため五〇〇ccクラスといえどもフルスケールの排気量ではなく、三七三ccだった。、
 ロングストロークエンジン諸元の案がまとまると、私たちはいったん帰宅し、翌日曜日の朝から関係する部品の詳細設計作業を開始した。それを設計担当者に任せた私は、四月十日までの七十日間で開発を完了させる日程計画作りに移った。
 開発の手順は、設計、部品製作、エンジン組み立て、エンジン台上(ダイナモ)テスト、実車走行による最終調整試験となる。四月十日が完成日だが、最大の問題点は部品製造期間だった。
 通常の部品製作日程ではとうてい七十日間でエンジンを完成させることができない。間に合わせるためには、わずか二週間で部品製造をしなければならない計算になった。
 月曜日の朝一番で加工担当の試作工場長のところへ行き、開発日程計画表を提示した。そして「スズキの威信にもかかわる問題だから…」と話し、「二週間で完成させるにはどうすればよいか…」と頼み込んだ。
 工場長はほかにも試作加工をいっぱい抱えていたが、「あんたがそんなに言うのなら、やらにゃしょうがない」と加工管理担当者を呼び、二週間で完成させる加工日程表を作成してくれた。
 この加工日程表には、ふたつの特徴があった。ひとつは“二十四時間態勢、休日なし”である。エンジンケースやシリンダーは長工程部品なので、最も時間を要する。アルミ鋳造品のために、鋳造用木型の修正、鋳造、熱処理、それに二十工程を超える機械加工がある。これらは日程というより“時間程”または“分程”となった。
 工程ごとに、某月某日何時何分に加工開始、何時何分に加工を終了させるとつぎの工程へ送るといった具合だ。例えば、エンジンケースの面削りの加工が午前三時三十分と組まれると、担当者はそれに間に合うように出勤する。このように、工程ごと担当者と時間が決められる。これが“時間程”または“分程”のゆえんである。
 このような二十四時間態勢をとるためには、労働組合の了解も得なければならない。

[写真:浜松市にあるスズキ本社と高塚工場]


〈22〉新エンジン開発(下) レース第一戦敗退

 午前六時にエンジンケースの面削り加工が終わると、次の穴開け加工に送る。現場には、穴開け加工担当者が六時に出勤していて、すぐに作業に取り掛かる。これが日程ならぬ“時間程”または“分程”のゆえんである。
 しかし、こうした二十四時間態勢をとるには、労働組合の了解を得なければならない。相談に行くと、逆に書記長から、「組合も協力するから、ぜひ、世界タイトルを取ってください」と励まされた。
 特徴の二つ目は“一工程複数人分担方式”である。シリンダーやエンジンケースの鋳造用木型工程で、一人の木型士が全体を彫ると時間がかかる。そこで、一つの木型を五つに分割して、分業方式で五人の木型士が一斉に彫刻に取りかかる。それぞれが出来上がると、最後に接着剤で張り合わせて一つにする。これにより通常の五分の一の時間で鋳造用木型が完成する。
 この素晴らしいやり方を考えてくれたのは加工管理担当者である。彼らや組合書記長の協力がなかったら、私たちレースグループだけではどうにもならなかったはずだ。
 このようにしてデコスタ用ロングストロークエンジンRN74型は、予定選りわずか二週間という電撃的なスピードですべての部品が完成した。試作工場の職人さんも開発陣も三倍働き、エンジン台上テスト、テストライダーによる実走行テストまで済ませて、四月十日までに三基のエンジンを完成させた。
 こうしてデコスタの要求したエンジンを、僚友のウォルシンク選手(オランダ)の分も合わせ、チームの基地のあるデンハーグ(オランダ)に空輸した。
 デンハーグで完成車に仕立てられると、デコスタとウォルシンクはすぐさま走行テストに移った。まず前年使った旧タイプのエンジンとの比較走行テストを行った。結果、二人とも乗りやすさの点でロングストロークのエンジンを選んだ。
 テストに立ち会ったチーフメカニック(主任整備士)の伊藤勝平は、デコスタの評価として、前年車よりは良いが、まだ不満足だと報告してきた。それは「エンジンが良くなって速く走れるようになった分、車体の走行操縦安定性に不満が出た」という内容だった。
 しかし、四月二十一日の第一戦、オーストリアGPにはこれで臨むしかない。デコスタは第一ヒートスタート失敗、第二ヒートはタイヤがパンクして途中棄権した。両ヒートともミッコラ(フィンランド・ハスクバーナ社)が優勝し、私のレースグループ長就任第一戦のレースは負けた。

[写真:スズキの工場における2輪車組み立て]
〈23〉無念の帰国 優しい取締役に感動

 話を二カ月前に戻そう。デコスタの注文によるモトクロス五〇〇cc用ロングストロークエンジンの急ぎの開発や、デイトナ二〇〇マイル用マシンの組み立て、発送業務などで多忙な毎日が続く中、モトクロスやロードレースの外国人ライダーによる走行テストは休むことなく続けられていた。
 だが、“その日のことはその日にやる”仕事に切り替えて、二週間が過ぎると寝不足や疲労が重なり、さすがに自分でも苦しいと思うようになった。そんな時、私は一つの決心をしなければならなかった。それは、“心身ともに俺(おれ)は絶対に参るもんか”というものであった。
 実は私は過去に失敗があった。昭和四十二(一九六七)年、私はアメリカ駐在員になっ
た。仕事の内容は二輪商品企画、技術サービス、認定業務、レースなど、六つか七つの業務を一挙に受け持つことになった。だが、英語の不得手な私は毎日の業務をテキパキとできず、英文の書類がたまるばかり。浜松の本社からの指示事項や依頼事項に対応しきれず、ついにうつ病になってしまった。
 眠れない日が続き、うつ病はひどくなる一方である。昭和四十三年六月、自ら申し出て日本に帰らせてもらうことにした。家族を連れて無念の帰国である。私の敗北であった。会社の上層部の方々や同僚にも多大な迷惑をかけた。第一、自分の名誉に自分で傷つけた。
 帰国すると私は二カ月ほど自宅で療養し、その間、私は妻と往診に来てくださる神経科医にしか会わなかった。というより、二人以外の顔を見る勇気さえなかったのである。
 ある日、鈴木修取締役(現スズキ株式会社会長)が自宅までわざわざお見舞いに来てくださったそうだ。妻は、「今、眠っていますから…」と鈴木修取締役に帰っていただいたという。私はごあいさつをすることすらできなかった。後で妻にその話を聞いて私は感動した。なんとお優しい方なのか、と。
 二カ月の自宅寮養後、二輪設計部に復帰した。上司の心遣いで通常の70%の仕事量にしてくださり、そのおかげで病気は少しずつ回復していった。この間の仕事は、アメリカ向け新商品、エンジン排気量ナナハン(七五〇cc)のオートバイのエンジン設計だった。これにだけ集中できるので、気分は常に前に向いていった。
 昭和四十九年二月のこの時、私はレーシングマシン開発でとても苦しい状態にあった。
ここで挫折してしまってはアメリカでの失敗の二の舞いになる。“心身ともに絶対に参っ
てはいけない”と強く心に決めたのには、こうした訳があったのだ。

[写真:鈴木修取締役(現スズキ株式会社会長)]
〈24〉胃かいよう 2カ月間の入院拒否

 外国人ライダーたちによるテストを始めて二週間もたつと、さすがに苦しい毎日ではあったが、楽しみなことが一つだけあった。
 徹夜の仕事をしながら、この改良をしたら明日の走行テストで何と言ってくれるのか、それがとても楽しみだったのである。いいと言ってくれればうれしいし、悪いと言えばその逆をやればよい。いずれにせよ、何らかの“変化”がある。その変化が楽しみなのである。
 そこで私は“明日の楽しみを今日つくる”のだと考えた。だから苦しいのではなく、この仕事は楽しいのだと思いながら努力した。世界トッフレベルのライダーたちが「このマシンは駄目だ」と言うんだから最善を尽くすのは当たり前ではないか。苦しい状態ではなく、これは“普通のこと”なんだと思えばよい。
 それからは、どんなつらいことでもつらいとか苦しいという意識は全くなくなった。遂に意欲がわいてきて、目玉の奥の方から大きく見開く自分の目にも気付いた。こんな実感は生まれて初めてだ。そんな私の鋭い目は周りにどう映ったのか。ただ黙々と働く開発スタッフたちを見るにつけ、私は彼らをかわいいと思った。
 ところが二月になって間もなく、私は急に腹の痛みを覚えるようになった。みぞおちのあたりに激席が走る。数日間は我慢したが、あんまり痛いので自宅から五百メートルぐらいのところにある中村医師のところに行った。エックス線検査をした結果、胃かいようと診断された。レントゲン写真を見ると親指大のかいようが三つある。
 中村医師に、「このままでは胃壁がただれて、穴が開いて血を吐いてあなたは死ぬ。だから二カ月聞入院しなさい」と言われた。私は即座に「嫌です」と答えた。
 心身ともに参るものかと決心したのに、体の方が先に参ってしまった。“その日のことはその日にやる”と決めて、その通りに実行してきたし、当然のことのようにマシンの改良は進んだ。外国人ライダーたちもわれわれ開発スタッフが一生懸命頑張っている様子を見てびっくりもしたし、感謝もしていた。
 テストチーム全体の雰囲気が盛り上がってきていたのだ。そんな時に私が二カ月も入院してしまえば、元に戻ってしまいそうな気がして、それをもったいなく思った。そんな理由で二カ月間の入院を拒んだのである。
 すると医師は、「入院が嫌なら十日間だけ会社を休んで、家でじっとしていなさい」と私に告げた。私は「はい、分かりました」と答えた。

[写真:1964年12月に完成したスズキの竜洋テストコース]
〈25〉緩衝器開発 マシンの性能が向上

 医師から「入院が嫌なら十日間だけ会社を休んで、家でじっとしていなさい」と言われ、私は会社を休むことにした。十日間ぐらい休んでも開発に支障をきたさないからだ。
 在宅のまま傍らに電話を置くことで、開発の進度や問題点など、その都度スタッフと話ができるし、必要とあらばスタッフを自宅に呼んでミーティングを行うことも可能だ。会社から自宅までは二十分とかからない。だから十日間会社を休んだぐらいで開発の勢いは止まることはないと考えたのである。
 “その日のことはその日にやる”方式による開発に最もびっくりしたのは、デコスタをはじめとするライダーたちだった。何しろ、前日に言ったことが明朝に、ちゃんと仕上がっていたからだ。言われたことは何でもすべてやったので、ライダーたちも考えてモノを言うようになった。
 そのため、日がたつにつれ、彼らから指摘される項目の数も減ってきた。彼らもだいぶ疲労していたが、こちらのペースに乗って、本当にまじめにテスト走行をしてくれた。エンジン、車体、クッションシステム、ブレーキなどすべての部品に手が加えられ、マシン
の性能もだいぶ向上した。そんな中で、後輪のクッションの改善効果がひときわ大きかった。後輪クッションの改善に協力いただいたのは岐阜県可児(かに)市にあるカヤバ工業であった。
 後輪クッションは車体の荷重を支える。直径四稚ンぐらいの筒状の緩衝器(ショックアブソーバ)と、その外側にはめられたらせん状に巻いたバネから構成される。
 緩衝器は、圧縮されたバネが素早く元の長さに戻ろうとする運動を適度に抑えるためにある。抑える力を減衰力(ダンピングフォース)という。これが働かないとバネが一気に元の長さに戻るため、後輪はゴムマリのようにボンボンと跳ねて、マシンの安定性が極めて悪くなる。そうならないために、圧縮されたバネが素早く伸びないよう、(オイルの流れの抵抗を利用して)減衰力を発生させるのが緩衝器の働きだ。
 この新型の緩衝器を付けて走ったデコスタはマシンから降りて来るなり、興奮気味に「これはものすごくいい。第一コーナーをエンジン全開で走れる」と言った。それを聞いてテストチームの雰囲気がいっペんに明るくなった。
 この方式の特許申請をしておけば良かったと後になって気付いたのである。夢中で開発している時は、そんなことには気付きもしなかった。

[写真:ライダーのデコスタ(右)と筆者の二男・知大(ともひろ)君]
〈26〉石油ショック(上) タイヤの試作できず

 特許申請しておけばよかったと後になって気付いた時には、多くのライバルメーカーにまねされていたが、この時は特許申請を考える余裕すらないくらい開発に追われていたのである。
 この新型の緩衝器のことを「別タンク式ガスショック」と呼んでいるが、この出現はその後の二輪車のみならず四輪車の操縦安定性に革命をもたらしたといっても過言ではない。
 昭和四十九(一九七四)年二月、モトクロスマシンの走行テストは毎日続けられた。実はエンジンの大きさ(排気量)別に一二五cc、二五〇cc、それに五〇〇ccの三つのクラスのマシン テストが同時進行で行われていた。
 これら三つのクラスのマシンを見ているうち、車全体のバランスが何となく違うように思えてきた。エンジンの大きさが違うのに、三車種とも前輪の直径が同じ二十一インチだった。私は、一二五ccと五〇〇ccが同じでよいのかと疑問を感じた。
 タイヤ担当者に意見を求めると、「そう言えばそうですね」と答えた。五〇〇ccの方が馬力も車速も格段に大きい。「じゃ、やってみましょう」ということになり、五〇〇ccのタイヤの直径を二インチ大きい二十三インチで造ることにした。
 すぐに私は二十三インチのタイヤの試作をタイヤメーカーに頼んだ。すると答えは「ノー」だった。スズキと取引のあるタイヤメーカー三社に打珍したが、答えはいずれも同じだ。理由を尋ねると、ゴム材やタイヤ整形用の金型ができないという。
 昭和四十八年は第一次石油ショックといって、原油価格の高騰と減産により世界の経済が大混乱した。階和四十八年十月OPEC(石油輸出国機構)が原油公示価格を21%引き上げると、その直後にOAPEC(アラブ石油輸出国機構)が、石油生産の5%削減を決めた。船積み価格はさらに高騰し、イラク原油が70%、リビア原油が94%、ナイジェリア原油はなんと96%も引き上げてきた。
 原油のすべてを輸入している日本は大打撃を受けた。九十日間あった原油備蓄は減る一方で、自動車関連企業はもとより、電力、鉄鋼、ゴム、繊維それに農業も含めたあらゆる生産経済活動が影響を受けた。これが“石油ショック”の発生である。
 電力を節約するために、夜の街からネオンサインが消え、テレビも深夜放送を自粛した。モノがなくなるという異常心理も加わって、すべての品目で品不足、買いだめが起きて市民生活まで大きく影響した。“トイレットペーパー買いだめ”騒ぎは今でも語り草になっている。

[写真:筆者たちが開発した新型の緩衝器は操縦安定性に革命をもたらした]
〈27〉石油危機(下) ゴムのにおい求めて

昭和四十八(一九七三)年の、トイレットペーパー買いだめ騒ぎは今でも語り草になっている。当然のことのように、レーシングマシン開発用パーツの入手も困難だった。石油を主要原料とするタイヤメーカーは、真っ先にその影響を受けた。二十三インチタイヤ造りを断られたのは、石油不足からであった。
 それでもタイヤ担当者と私はあきらめきれず、結局、「じゃ、おれたちで造ろうか」と話は決まった。タイヤ担当者は愛知県渥美半島を昔オートバイで走った時、ゴムのにおいがしたのを覚えているという。もしかしたらタイヤ修理業かもしれない。そこへ行ってみようじゃないかと、車に乗り西に向かった。
 渥美土畠といっても行ってみると広い。どこにゴムのにおいのする所があるかも分からず、ガソリンスタンドで聞いたり、自動車の修理屋を男つけては尋ねたりして、大体の方角をつかんだ。そこで私たちは、「ゴムのにおいのする所を探そう」と車の窓を全開にして走ることにした。二月の寒風が勢いまく車内に入ってくる。私の胃も余計に痛む。しかし十日間休んだので以前よりはいくらか楽になっている。
 私たちはついに田んぽの中にあるゴムのにおいの発生源を突き止めた。オヤジさんに話をすると、「おれの所はタイヤ回収業だから、あんたらの言うことはちょっとできんね」と言う。「どこかタイヤ修理業は知らんかね」と尋ねると、「春日井市(愛知県)の方にあるよ」と言う。
 われわれはハンドルをさらに西に向け、名神高速道・春日井インターで降りた。ガソリンスタンドなどでタイヤの修理屋はどこかと尋ねて回ると、大体の見当がついた。再び車の窓を開けて、ゴムのにおいを求めてくるくる回った。そしてついに見つけた。
 両脇に大型の古タイヤを山のように積み重ねた間が通路で、その奥に小屋があり、オヤジさんはそこにいた。「実はここに二十一勺のタイヤが二本ある。この二本のタイヤを一本にして、二十三巧のタイヤにしてください」と持ち掛けた。
 するとオヤジさんは「こんな話は初めてだね。でもやってやれんことはないよ」とうれしい返事である。
 ただし、「ゴムを溶かし込む型を造ってきてくれ」と言う。私たちはいったん会社に戻り、鋳造工場へ行ってタイヤをつなぎ合わせるアルミ型の製作を頼んだ。U字型でそこに二十三勺のタイヤがびったりはまる溝を設けたアルミブロックの簡単なものだ。数日たって私たちはアルミブロックを積んで、再び春日井市のオヤジさんを訪ねた。

[写真:石油危機で消費者はトイレットペーパーなどの買いだめに殺到した=1973年、東京]
〈28〉23インチタイヤ 不採用でも悔いなし

 二十三インチタイヤの造り方はこうだ。まず一本日のタイヤを切断する。切断したところから両方に向かってゴムと(タイヤの骨格に当たる)カーカスを五センチぐらい除去する。ただし、十数本あるスチールワイヤだけは残す。二本日のタイヤを、二十一インチと二十三インチで周長が長くなる分の十六センチと、一本日でゴムとカーカスを取り去った分十センチの合計二十六センチの長さに切断する。
 今度は二十六センチ長さのタイヤの両端から五センチずつスチールワイヤをほくし出す。この二つを突き合わせると、二十三インチのタイヤとなる。この時ほぐされた双方のタイヤのスチールワイヤが重なり合うから、これを溶接してつなぐ。
 次いで突き合わせたゴムの部分と、溶接されたスチールワイヤの部分をアルミブロック(アルミを溶かして造った型)にはめ込んで、そこへ溶けたゴムを流し込み、高温のかまに入れて一持間ほど加熱する。取り出して冷えれば二十三インチタイヤが出来上がり。耐久性の保証はないが、代金は一本六千円なり。
 私たちは、不可能を可能にしたようないい気分で浜松へ急いだ。本社に着くと、その日のうちにあらかじめ用意してあった二十三インチ用タイヤのリム(スポークの付いた丸い鉄の輪)に組み込み、タイヤの回り止めでしっかりと固定した。翌日の走行テストを楽しみに待つことにした。
 デコスタに走行テストをしてもらった。デコスタは慎重に走り、走り始めて六周日にテスト専用の二十三インチのタイヤは駄目になった。溶接されたスチールワイヤが予想通り外れたのだ。スチールワイヤはピアノ線で作られているので溶接性が非常に悪い。溶接部が取れるのを承知で造った二十三インチだから、六周持てば十分だ。
 早速デコスタに感想を求めると、「直線安定性やブレーキ時の安定性は良いが、左右への切り替えしが重い。それに前輪重量も重い感じがあり、トータルとしては機動性の面で二十一インチタイヤの方が優れている」と、二十三インチタイヤ採用はNGとなった。
 私たちはがっかりしたが、二十三インチタイヤの性能は分かった。タイヤメーカーに断られてそのまま引き下がり、二十三インチのタイヤテストをやらないでいたら、後々まで悔いを残しただろう。そう思えば、やって良かったと私は満足した。
 ゴムのにおいを求めて造った二十三インチタイヤは楽しい思い出になった。その後何年かたって、ホンダが前輪二十三インチを一部の生産車に採用してきた。“おれたちはずっと前にやったよ”と私たちはほくそ笑んだ。

[写真:21インチタイヤを切断し、同じタイヤを継ぎ足して23インチタイヤを試作した。下の部分はその時使ったアルミブロック]
〈29〉医師の忠告 気持ちにゆとり持て

 昭和四十九(一九七四)年の二月下旬には、デコスタやB・シーンらによる走行テストを一通り終え、各自に昭和四十九年用レースマシンの試作車を一台ずつ持たせて帰国させた。
 グランプリレースの公式シリーズ戦は四月からスタートするが、三月になると、ヨーロッパやアメリカの各地でオーフン戦が始まる。オープン戦は一部の例外を除いて日曜日に行われ、時差の関係から、結果は翌月曜日の朝に届く。
 ところが、レース結果に二位はあっても一位がない。翌週も翌々週も優勝がない。出ると負けが続いた。あんなに改良を重ねたというのに、なぜ勝てないのか。
 なお続く胃潰瘍(かいよう)の治療のため、私は二日に一度、中村医師のところに通っていた。自宅から歩いて五分くらいのところに中村医院がある。歩きながらいつも何かを考えていたが、その中で覚えていることが一つだけある。それは“死んでもいいから勝ちたい”だった。
 その時、第二次大戦中の神風特攻隊の精神教育を受けた自分は、“やっぱり日本人なんだなあ”と思った。私たちの年代の多くは特攻隊精神を持っていたのだろう。私はプロだ、プロフェッショナルは勝たねばならない。しかし得てよ、死んでしまっては何にもならない。そこで私は医師に頼んだ。
 「体のどこかが不自由になっても構わないから、命だけは助けてください」。すると医師は、「あなたはいったい、どんなことをしているのか」と、詳しく説明を求めた。
 私は「こういうわけで、一日の睡眠時間は三−四時間です。寝不足で頭がぽんやりしているから、濃いコーヒーを何杯も飲みます。カッカときてたばこは一日四十本以上になります。忙しく動き回って体は疲れ気味。深夜までの仕事でも夕食は帰宅するまで取りません。五分でも十分でも睡眠が欲しいので、寝酒をあおります…」。
 私の話を聞くと、「それはいけない。どれひとつ取っても胃潰瘍になるのに、あなたは七つも八つも原因がある。胃潰瘍になるのは当たり前だ」。医師はさらに続けて、「それらもいけないけれど、一番いけないのは、“あなたの気持ちにゆとりがない”ことだ」と言う。
 「じゃ先生、気持ちのゆとりはどうやれば持てるのですか」と尋ねると、医師は即座に「そんなことは自分で考えなさい」と私をじっと見つめた。“気持ちのゆとりねぇ”と私は分からないままその場は終わったが、医師に忠告されたことはできるだけ守ることにした。薬はちゃんと飲み、洒はやめた。

[写真:筆者近影 ]
〈30〉速いとは? ラップ短いのが一番

 私は薬をちゃんと飲み、洒はやめ、たばこは半分以下、カッカとこないように努め、おなかも空っぽにしないようにした。どこに行くにもいつもビスケットとミルク入り魔法瓶を持ち歩いたのである。中村医師の「三時間おきにビスケットを三枝食べなさい」との指示のためだ。
 開発用部品を頼みに仕入れ先に行っても、ミーティングの途中で「ちょっと失礼」と言って、ビスケットとミルクを口にした。これが先方には異様に映ったらしい。後になって聞いた話だが、仕事に取り組む私の真剣さが迫力あるものとして映ったようで、“これはやってあげなくてはいけない”と思ったと打ち明けられた。
 昭和四十九(一九七四)年三月、ベルギー在住のデコスタは、気候温暖なアメリカ・フロリダ州に遠征、トレーニングに励むと同時に、彼の地のオープン戦レースに出場していた。デコスタと同じ目的で、世界中のトッフレベルのライダーたちも大勢集まっていたらしい。そんな中で書いたであろうデコスタからの一通の航空郵便が私の元に届いた。内容はほぽ次のようなものだった。
 「二月に行った後輪クッションなどの改良で、スズキ・モトクロスマシンの総合性能は昨シーズンより相当良くなっている。しかし、まだ勝てる状態にない。改良してほしい箇所(かしょ)はいろいろあるが、後輪クッションにまだ問題がある」という。
 私は“速いとは一体どういうことか”と反省してみることにした。加速が良いのも速いことだし、最高速が高いのも速いことだ。しかし最も大切なのは、コースを一周しての“ラップタイムが短いのが速さの条件だ”との、ごくごく当然な結論を得た。
 ラップタイムを短縮するためには最高速を高め、カーブ手前のブレーキングを良くし、カーブ立ち上がりでは強力な加速を得て、再度、素早く最高速に達しなければならない。そのために“走って、止まって、曲がってまた走る”の繰り返しの機能が高度なレベルでバランスが取れているかどうか、それをもう一度見直さなければならない。
 見直しはどこからすればよいのか、この二カ月余りの間、ライダーにほれることによって、彼らの言いなりにやってきた。思い返すと数多くの無駄があった。初めから駄目と分かっていても、ライダーから言われたからと、やったことも少なくなかったのだ。そのためがむしゃらになって体調を壊し、スタッフやその家族にも迷惑をかけた。
 結局、りんごが下から上に落ちるような、原理・原則を無視したようなことを平気でやってきたのだ。

[写真:デコスタは1971−73年の個人タイトルを手中にした]
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