世の中の流れを変えよう
元スズキ二輪車設計者 横内悦夫
(宮崎日日新聞連載 2008年3月22日 〜 2008年4月1日 掲載分) 2/9 |
〈11〉宮大時代 講座をサボり映画へ
昭和28年4月になると私は宮大への汽車通学を始めた。都農駅7時12分発の汽車に乗り、8時ちょっと過ぎに花ケ島駅(今の宮崎神宮駅)に着く。宮崎神宮の鳥居をくぐって農学部を右に見ながら工学部に向かって歩いた。
細島の黒木毅さん、美々津の明田尚之さん、高鍋の矢野吉一さん、それに私の4人で歩いた。同じことが4年間も続くことになるのである。
大学1年生と2年生の2年間間は、講義の半分は一般教養で、工学部と道を挟んで東側にある学芸学部に受講に行った。心理学の時間、この講座はつまらなかったので、私と明田君の2人は、友人に代返を頼んで映画を見にいった。ロマン座という映画館があって、「第三の男」を見た。代返がばれて、後で心理学の教授にひどくしかられた。
7月10日から長い夏休みになる。1週間もすると退屈になって、母の実家へ遊びに行った。都農の隣の川南町祝子塚(ほらつか)に母の実家があったのである。祖母、叔父、叔母(以上故人)、それに3人のいとこの計6人がいて、そこへ私がもぐり込んだという次第。
母の実家は当時農業だったが、私は手伝いをあまりせずに遊んでばかりいた。そんな私を皆さんは家族同様に、とても親切に扱ってくれた。私にとっては、まるで別荘での毎日のようだ。
いとこたちと下の川に行く。下の川とは平田川のことで、川には魚が豊富にいた。ダクマエビ、ハゼ、ウナギがいた。川には石と材木を組み合わせた灌漑(かんがい)用の頑丈なせき(ダム)があって、その下流が浅瀬になっており、瀬の流れを変えたりするとハゼやウナギが出てきて、私たちはそれを捕まえた。もちろん食用にするのである。
灌漑用の幅1?の川に、カライモを細かく噛(か)んで流れの緩やかな所に投げると、ダクマエビが下流からやってくる。エビ取り網を下流からもっていき、エビの尾をチョンと刺激すると、エビは網に飛び込む。
せきの上流は深さ1?の湖で、格好の水浴び場だ。せきから上流までを何往復もして、遠泳の練習ができた。この思い出深い湖も、平成17年秋の台風の大水で、せきが流されてしまったというから残念である。
あれから50年たっても、祝子塚の美しさは今も変わらない。
昭和31年、4年生になると卒業論文の研究にはいる。私は当然のことのように、「内燃機関」教室を選んだ。オートバイ会社に就職を希望していたので自然の成り行きだった。指導してくださるのは前田安己教授(故人)で、ヤンマー発動機を使っての研究だった。
[写真:宮崎大学1年生のころ。昭和28年]
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〈12〉スズキ入社 コレダにあこがれて
昭和31年、4年生の秋になると就職先をどこにしようかで、そわそわしてくる。私はオートバイ会社を探していたが、当時は30社以上もオートバイメーカーがあって選択を迷っていた。
ちょうどそのころ、工学部から帰る途中に1台のオートバイが私を追い越していった。私はその音に気持ちを奪われ、衝撃を受けた。何と静かで上品な音か。まるでキャデラックではないか。
静かに走って行くそのオートバイの後を私は追いかけた。足には自信があったので全力で走った。しばらくしてオートバイは止まった。高千穂通りを宮崎駅に向かっていって左側にあるトヨモーターの前だった。
運転者に聞いてみた。「これは何というオートバイですか」と聞くと「コレダ号です」という。コレダTT250で、近くに寄ってよく見ると、超デラックスで気品にあふれていた。
そのとき私は、このようなオートバイを造りたい、設計したいと強く思い、就職はこの会社にしようと心に決めた。
造っている会社は「鈴木自動車です」とその人が教えてくれた。正式には、鈴木自動車工業(株)といって本社は静岡県浜松市にある。今のスズキ(株)である。昭和32年4月、私はスズキに入社した。入社してみると、新入社員の大卒者は26人だった。皆良さそうな人たちのようで、笑顔で接することができた。最初の3カ月は教育実習期間であり、サービス課の整備室でのエンジンや車体の分解、組み立ての実習を行った。
ある日、整備室の隅に1台のオートバイがあるのを見つけた。よーく見ると、あのコレダTT250型だ。しかしハンドルはなく、ヘッドランプや前後も泥よけもない。部品は取り外されて倒れそうになっている。
私は責任者に申し出て、整備させてほしいと頼んだ。許可が出たので社内から部品を集めることにした。3日かけて整備を完了させた。
そのころ社内に1周800mのテストコースがあった。舗装はなく砂利道だった。私はコレダTT250を乗り入れた。感動の1周目はゆっくり走り、2周目からアクセルを開けた。すると鋭い加速と重厚な排気音を味わうことができた。
ところが3週目、砂利道のへこみにハンドルを取られて大転倒した。そばで見ていた友人は、オートバイが縦に三回転し、その後を私が転がっていったという。
私はかすり傷を何カ所も負ったがオートバイはだめになった。あこがれのコレダTT25
0型は3周で終わった。しかし私は満足した。高千穂選りで初めて見て衝撃を受けたコレダTT250の走りは素晴らしかった。
[写真:昭和31年夏発売のコレダTT。高馬力を誇ったが価格も高かった]
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〈13〉設計課配属 歯車設計に徹夜勉強
スズキ(株)に入社後、三ヶ月の実習期間を終え、昭和三十二年七月に新入社員の職場配置が決まった。私は設計課。オートバイの設計をする課に配属されたので大満足だった。
私と同期入社したのは二十六人で、出身大学を聞くと、東京大学、京都大学、名古屋大学、一橋大学…とトップレベルの大学の卒業者が多くいた。田舎出身の私は、彼らと対等にやっていけるのだろうかと、劣等感にも似たものを感じた。
ところが、いざ設計課に配属になると、そんなことを考えている暇はなかった。スズキモペッドという50ccの新型車の部品設計を任され、ハンドルバーやガソリンタンク、それに車体などの部品設計図を描くことになった。日程に余裕はなく、来る日も来る日も残業となった。
T定規、三角定規、コンパス、それに分度器を使いながら作図をしていく。スピードと正確さが要求される仕事だった。設計製図に集中していたので、この時点では同僚に引け目を感ずるようなものはなくなっていた。
そんなある日、係長から「歯車を設計しなさい」との指示がきた。工学部で歯車の基礎だけは教わったが、実際に歯車をつくるとなると自信はなかった。そこで一度は先輩に聞こうと思ったが、それでは宮崎大学の名折れになる。
終業のサイレンが鳴るとその足で浜松市内の書店に向かった。書店で中田孝先生の「転位歯車」という本を買って、その日は徹夜で勉強した。
翌日は寝不足だったが、私は気合を入れて、歯車の計算を始めた。一組の歯車は、回す歯車と回される歯車の形を決めればよい。計算機は手回し式で、チンガチャガチャとやるので一組の歯車諸元を計算するのに数時間かかった。今はコンピューターなので三分とかからない。
計算を終わって、何回もチェックして、設計図に書き込んだ。図面に間違いがあってはならないので三回も確認した。できた図面を試作工場に持っていき、制作依頼をして二週間待った。
出来上がった一組の歯車を手にすると少しドキドキした。組み立ててうまく噛(か)み合うかどうか心配だったのだ。しかしそれは無用だった。初設計の歯車を組み立てるとぴったり噛み合った。よかったぁ。
昭和三十三年秋、私たち設計課員は、親ぼく旅行で伊勢神宮参りに行くことになった。東海道線と近鉄線の電車を乗り継いで伊勢に着く。伊勢神宮の境内は広い。一番奥の社殿には、われわれ一般人は入れてもらえなかった。
近くに真珠養殖で有名な鳥羽真珠島があり、展示館では巨大な真珠をみせてくれた。
[写真:新入社員が集まってツーリング。昭和32年5月。左が筆者]
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〈14〉テスト走行 居眠りして転倒入院
昭和三十四(一九五九)年の正月は宮崎で迎えようと、暮れに帰った。そのころ浜松から都農まで汽車で帰ると、急行「高千穂号」で二十五時聞ぐらいかかった。大変疲れるので、その年は大阪(伊丹)から宮崎空港まで飛行機に乗った。
当時日向日日新聞(現・宮崎日日新聞)に「航空往来」という覧があって、宮崎空港を利用した乗客の名前をそこに毎日載せていた。私の名前も新聞に載った。飛行機で帰るのを家には私は内証にしていた。しかしある叔母がそれを読んで「あんた飛行機で帰ったつね」と言われ、「何とぜいたくな」といやみを言われた。
四十人乗りぐらいのプロペラ機で大阪−宮崎間を二時間くらいで飛んだ。今はジェット機で時間は半分だから便利になった。当然のことのように宮崎から浜松へは、高千穂号に乗った。
昭和三十四年春ごろ、私の仕事の内容が少し変わった。しかしオートバイエンジンの部品設計図作製業務に変わりはなく、今から思ってもよくやったと思う。当時週六日労働で、休日出勤と残業を合わせ一カ月の残業時間が百時間を超えた。自分の時間はほとんどなく、とにかく働いた。
しかし私には全く苦にならなかった。むしろ図面を描くのが楽しかったのである。
そんな時、別の楽しみもあった。新型商品の耐久性をチェックするテスト走行だ。走行専門グループがあって、午後五時まで走ることになっていた。耐久テスト走行のメンバーは毎日走るので残業はなく、五時以降は代わりの社員が走ることになっていた。
その代理のテストライダーを私は買って出た。夕方五時ごろ、私は相棒とともに二台のオートバイでスズキ本社を出た。
コースは一周六十キロの浜名湖を二周する予定で出発した。オートバイに乗っていることを幸せに思いながら走った。出発して八十キロを過ぎたころ私にアクシデントが起きた。
砂利道をゆっくりしたスピードで走り、バスの後に付いたのは覚えているが、それから先の記憶がないのである。連日連夜遅くまでの仕事で疲労していたせいか、私は居眠り運転をしたらしい。
転倒して私は気を失った。あわてた相棒は「構内さんが転んで倒れて動かない」と会社に電話。係長と社内医務室の看護婦さんが、自動車で飛んできた。私は二、三日入院することになり、良い休養がとれた。
五時を過ぎてからの耐久走行テスト当番は、一過間に一度くらいの割合で回ってきたが、私にとっては楽しみの一つだった。オートバイに乗っている間は幸せな持間だったのである。
三十四年の暮れ、私は都農に帰ることにした。
[写真:入社2年目の昭和33年11月、山梨県・河口湖で。スズキTP250と]
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〈15〉婚結
思い出多い都農神社
昭和三十四年の暮れ、都農に帰るとお見合いの話が持ち上がった。
私たちは宮崎神宮で一日を楽しく過ごして、お互いを理解し合うことができた。のちに彼女は、私の人生において、この上ない大きな支えとなってくれたのである。
伯父・横内行男(元宮崎県議会議長・故人)夫妻の媒酌により、都農神社で神前結婚式を挙げた。都農神社の神域は、深い森に覆われており、玉砂利を踏んで神殿までの参道は荘厳である。
少年のころ、神社に沿った旧国道10号を歩いて小学校や中学校に通った。学校の帰り、神社へよく遊びに行った。お参りしたあと、境内に池をめぐらせた庭園があって、そこで弁当を食べながら池のコイに餌をやったのも楽しい思い出だ。
都農神社は、日向国一之宮といって、創建は定かではないが、千百年以上の歴史ある、格式の高い神社であることは間違いないようだ。祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)。大和へ遠征するために高千穂宮を発(た)った神武天皇が、この地で武運長久を祈願したと伝えられている。祈願したあと神武天皇は、おきよ丸に乗って美々津港から船出されたという。
社殿は、築後百五十年がたち、老朽化が進んだため、「平成の大造営」がなされ、平成十九年に新社殿が完成した。一之宮といえば、なんといっても八月一、二日の夏祭りが一番の楽しみだった。昭和二十年代、二頭(匹)の獅子が先導し、続いて豪華な黄金の御輿(みこし)と、二台の太鼓台の行列である。
きれいに飾られた太鼓台には、四人の男の子が太鼓を囲んで乗りこみ、チョーサイナ、ソーラヤレと掛け声をかけながら太鼓をたたく。御輿や太鼓台を担ぐのは青年団のお兄さんたちだ。真夏の猛暑の盛りに、一日に数キロも担いで都農の町を練ってゆく様に感心した。
二日日の夕方になると、お宮入りがある。ずっしりと重い御輿と太鼓台が激しくぶつかり合って、祭りは最高潮に達する。
冬祭りにも思い出がある。夕方から始まる神楽だ。境内の太鼓橋の奥にある大木の前で、徹夜で舞われる夜神楽。十二月の寒い夜、私は震えながら神楽の舞を楽しんだ記憶がある。
先年、河野通継・前都農町長のご案内で、ワイナリー(ワイン醸造所)を見学した。全国国産ワインコンクールで金賞を受賞したというからすごい。ワイナリーは小高い丘の上にあり、都農の町が一望できる眺めはとても素晴らしい。
昭和三十八年秋、浜松のスズキ本社に、アメリカから一人のオートバイのバイヤーがやって来た。二五〇ccクラスのヒット商品を造ってほしいという。
[写真:思い出深い都農神社境内。最近社殿が新築された]
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〈16〉米国ツーリング(上)−熱風の砂漠でテスト
昭和38年の秋に1人のアメリカ人が防ねてきた。ケンという名だと紹介された。スズキ製オートバイの輸入業をしており、アメリカ市場向けに250ccのスーパースポーツ車を開発してほしいと要求してきた。
こうして私たちは、世界初となる六段変速、高出力、最軽量の250cc車T20型を開発することになった。最も重視したのが車体の軽量化だった。それにより俊敏性をもたせられる。
試作車を一周6.5キロの竜洋テストコースに持ち込んで走った。長い直樺賂でスピードを上げると、メーターは時速120キロを超えた。エンジンは快調、車体の安定性もよく、人生初体験の喜びだった。ヘルメットの中で自分の顔がほほえんでいるのが分かる。
昭和40年秋に、生産を前提とした試作車を携えて、私はアメリカに飛んだ。新しく開発したT20型オートバイが、アメリカ市場にマッチしているかどうかを確かめるための現地走行テストをするためだった。ロサンゼルスにあるUSスズキ(販売代理店)をこのためのテスト基地とした。
当時私は31歳で、生まれて初めてのアメリカ出張だ。最初に驚いたのは道路の良さ。高速道賂が縦横に走っている。しかもどこを走っても無料だ。昭和40年当時の日本の道路は砂利道が多く、高速道路は東名高速道と名神高速道だけだった。
まず、USスズキのビル・バスチャンという人と一緒に、ロサンゼルス近郊を走ってみた。一週闇ほど近くを走行しながら様子をみて、私たちは2台のT20で遠距離走行に出た。ロサンゼルスをたち、ルート66を東に向かった。昭和30年代、人気番狙の「ルート66」がテレビで毎週放映された。私たち1家はいつもテレビの前でルート66を見た。そんなこともあってT20でルート66を走ることにした。
マハビ砂漠に入ると気温が40度を超えた。十月のこの季節は、インデアンサマーといってマハビ砂漠は高温になる。時速100キロを超えるスピードで走ると顔に熱風が当たる。熱風が鼻の穴を広げて、柔らかくなってバーベキューされている感じになる。ヘルメットをかぶって走るオートバイならではの体験だ。
このあたりのルート66は車が非常に少ない。走っているのは私たちだけで、貸し切りのようなものだ。緩い勾配(こうばい)の坂の頂上に差し掛かって大きくカーフすると、また何十キロも前方に同じ景色のハイウエーが現れる。ルート66はこの連続で、退屈さと走る楽しさを同時に味わうことができた。
アリゾナとの州境、カリフォルニア山脈のニードルスという街に最初の宿をとった。
[写真:米国では標高3000kmの高地でテストしたことも。看板の上、中央が筆者]
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〈17〉米国ツーリング(中) 高鍋からお産の報告
カリフォルニアのニードルスを出発して、翌日はグランドキャニオンに向かった。すると途中でエンジンの回転が重くなり、力もなくなってきた。
私は不安な気持ちになった。誰もいないこんな砂漠でエンコ(エンジン故障)したらどうしよう。不安な気持ちで走っていると、一枚の道路標識が目に入った。それを見てエンジン不調の原因に気付いたのである。
道路標識には「EL7000」とあった。標高7000フィート、つまり標高200メートルまで登ってきていた。緩やかな登坂路の連続だったので、そのことに気付かなかったのだ。エンジン不調の原因は空気が薄くなって、エンジンが高山病にかかったせいだったのである。すぐに道路端に止めて整備にかかった。
気化器(キャブレター)を調整して、エンジンに送る燃料の量を10%少なくした。空気が薄くなった分ガソリンを減らしたわけである。
エンジンは元気を取り戻した。ビルと私はグランドキャニオンに向かった。着いてみると、後に世界遺産となった国立公園とあってスケールが大きい。
展望台から眺めると、落差1600メートルの谷底にコロラド川が見える。土産物店で、大木が化石になった本立てを買った。
その日、フラッグスタフのホテルに着いてUSスズキに電話すると、二男が生まれたという。1965(昭和40)年11月6日。体重は3500グラムで親子とも元気とのうれしい報告を受けた。私が日本に不在だったので、予定日の1力月前から妻は宮崎に帰っていた。お産は高鍋町道具小路の病院であった。
翌日、アリゾナの州都フェニックス市に到着。フェニックス市内をT20で走っていると、白バイに止められた。日本の免許証を見せ、アメリカにT20で来た目的を話した。すると警官もオートバイが好きな入らしく、オートバイに関した質問をいくつもしてきた。私たちは仲良くなり、一緒に記念写真におさまった。
フェニックスを出発して東に向かい、やがてニューメキシコ州に入る。空気は乾燥し、砂漠の中にサボテンだけが目立つ風景だ。ホテルに着くとプールがあったので、私はここぞとばかり泳いだ。プールから上がって5分もたたないうちに目が痛くなった。同行のビルに聞いたら、プールの水はアルカリ性が強いので目が痛むのはそのせいだと言う。国によって水質が違う。
翌朝、私たちは進路を東にとり、テキサス州へと向かった。州境のエルパソ市の街に近づくと、意外な光景に気付いた。道路の右側に水のない川があり、川の向こうとこちら側では街の様子がまるで違うのだ。手前はアメリカ、向こう側はメキシコなのだ。
[写真:米国の砂漠で。写井は1967年、GT250のテスト。バイクの上に立つのが筆者 ]
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〈18〉米国ツーリング(下) ロッキー横断は断念
テキサス州エルパソに近づくと、水のない川を挟んで道路の右側と左側では街の様子がまるで違う。砂漠のような土地では、雨が降らないので川に水はない。左側はアメリカ、右側はメキシコであることが分かった。
国が違えば様子も変わり、メキシコ例のほうが随分と質素に見えた。メキシコとアメリカの国境のゲートでは、両国の市民が係員にパスポートのようなものを見せるだけで自由に出入りしている。
私たちはエルパソ・スズキの販売店を訪れた。前評判の高い新商品、T20の情報はこの店にも既に入っており、店主は興味深くT20を見入っていた。
店内でコーヒーを飲みながら話し合っていると、店主から「ニューメキシコ州からここまでどのぐらいのスピードで走って来ましたか」と聞かれたので、私は「時速百四十`です」と答えた。
すると店主は驚いた顔をして言った。「アメリカ人は絶対にそんなスピードでは走らない」と言う。理由を尋ねると「アメリカ人は速くて百五キロです。もしあの広い砂漠で故障したら、助けを呼ばなければならない。大金がかかるからアメリカ人はそんなスピードは出さない」と訳明された。
T20は大丈夫かと、聞かれたので、「スズキ本社で非常に苛酷(かこく)な耐久試験をやってきたので首四十`でも問題ありません」と答えた。
私たちは進路を北にとり、ひたすら走った。どこまでも草原が続く。これまでの砂漠の景色とは違う。ロッキー山脈の東側に来たせいだ。道路は直線に近く変化もない。
コロラド州に向けて北上していると、左側にロッキー山脈が見えてきた。そしてようやくコロラド州の首都デンバー市に着いた。大リーグで有名な“ロッキーズ”の本拠地でもある。デンバー市の西側はロッキーの山だけ、東側には広大な草原と畑が広がる。
美しいデンバー市内を観光した後、私たちはロッキー山脈横断を試みた。成功すればそのままロサンゼルスに帰られる。ところが標高二〇〇〇メートルくらいの山道に差しかかると雪になり、走れなくなった。やむなく私たちはデンバーへと引き返した。
オートバイをUSスズキに輸送するよう販売店に依頼して、私たちは空路でロサンゼルスに帰った。T20は途中、マシントラブルも無く、燃料消費量やエンジンオイル消費量測定も行い、約二千五百キロの長旅を終えた。
二カ月半ぶりに浜松のスズキ本社に戻り、報告を済ませ、休む間もなく私は、次への新機種開発に移った。五〇〇cc二気筒車、七五〇cc三気簡車の開発を行った。
[写真:コロラドの雪の中、T20をテスト走行する筆者]
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〈19〉社長に直談判 レース予算「貸して」
昭和四十九年一月、レースグループを命じられた。世界グランプリレースに出場する外国人ライダーたちがやってきたころ、その年のグランプリレース予算申靖を行った。
マシンの技術開発費、グランプリレース用マシンの製作費と補給部品費、ライダーたちとの契約金、世界中を転戦するためのチーム活動費を含めて三億七千万円の予算申請書を持って、私は社長室に入った。当時の社長は三代日の鈴木実治郎(故人)だった。
第一次石油ショックの真っ最中とあって、資金繰りの面からも三億七千万円はとても大きな金額であった。四十三年度のスズキの経常利益が二十五億円だから、その15%にもなるので相当な金額だ。
鈴木社長は「三億七千万かぁ…」と言われたまま、しばらく何もおっしゃらなかった。その表情から心中を察することができた。そこで私は「三億七千万円下さいとは申しません。私に貸してください」と言ってしまった。
「貸してくださいとはどういうことか」と社長はおっしゃるので、私は「今年モトクロス125ccクラスで世界チャンピオンを取ります。取ったら、それと全く同じ性能、同じスタイルと色で生産し、レフリカ版市販レーサーとして少々高く売ります。そうすればその利益でお借りする金額の三倍から五倍にしてお返しできます。ただし、二年間待ってください」とせまった。
すると社長は、「ようし」と言って、許可の大きなハンコを予算申清書に押してくださった。私は「ありがとうございました」と言って社長室を出てドアを静かに閉めた。
次の瞬間、「言ってしまった」と、大きなプレッシャーを感じた。何が何でも世界一を取らねばならないという重大な責任とプレッシャーを自分で自分にかけてしまったのだ。
このようにして誕生したのが市販レーサーRMシリーズであり、RMのルーツである。
それまでの市販レーサーは性能上、ほかよりもやや劣っていたので、売れ行きはいまひとつであった。
今、外国人ライダーが日本に釆て今年のGPマシンを開発している。ライダーのG・ライア(ベルギー)の走りから見て、不満は言うものの、従来よりも格段によくなっている自信が私にはあった。市販すればヒット商品となることは間養いない。
予算は確保したものの、走行テストは順調ではなかった。始まって二、三日すると、ライダーたちの聞から異口同音に不満の声が出てきた。
“その日のことはその日にやる”仕事がさらに続く。
[写真:昭和51(1976)年のモトクロス125ccフランスGP。ゼッケン1はスズキを駆るガストン・ライア(前年チャンピオン) ]
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〈20〉
新エンジン開発 (上) 乗り手の説明に納得
昭和四十九(一九七四)年二月上旬、明日は休日という土曜日の夕方、私は、モトクロスライダーのデコスタや数人の開発スタッフとともにホテル内のレストランで夕食をとっていた。歓談が続くうちに、それまでニコニコしていたデコスタの顔から急に笑顔が消えて、「ロングストロークのエンジンはできましたか」と言いだした。エンジンの心臓部のピストンという部品が上下に動いて馬力が出る。その動きの長い、つまりロングストロークの方がエンジンの回転力(トルク)が出やすい。それまでのエンジンは上下の動きが短い。だからエンジン回転数の低い範囲、つまり低・中回転域の力が不足していると言う。
前年の秋、デコスタは前任者にエンジンの力不足を解決するため、ピストンの動きの長いロングストロークのエンジンの開発を依頼した。前任者は開発を約束したと言う。私にとっては寝耳に水の話だった。
「ロングストロークのエンジンはできていません」と答えると、デコスタは不機嫌になった。鼻をツンと上げて私を見下ろす態度で、「できていないのは約束違反ではないか」と迫って来た。
デコスタは前年、世界チャンピオンを取ったものの、ドイツのマイコ社などのマシンの台頭が著しく、苦戦を強いられた。
彼の要望はこうだ。コースを一周するラップタイムをよくするためには、小さなコーナーからの立ち上がりを素早くすることが大切で、そのためには最大馬力を落としてもよいから、低・中回転域の回転力を上げてほしい。イメージとして、トラクターのようにタイヤの跡がついて、トコトコと立ち上がっていけるような出力特性が欲しいと言う。非常に分かりやすい説明に私は納得した。
「じゃあ、今からすくやろうじゃないか」と私は、すぐさまロングストロークエンジンの開発に着手することを決心した。昭和四十九年モトクロスグランプリの第一戦は四月二十一日のオーストリアGPと決まっていたから、この日から数えて七十五日しかない。
二カ月半である。設計スタッフに、「ロングストロークエンジンを開発するのに要する期間は通常どのくらいか」とたずねると、「約七カ月です」との答えが返ってきた。
そこで私は、「じや三倍働こう。二カ月半の三倍は七カ月半だ。七カ月でできれば半月分の余りが出るじゃないか」と言って、私たちは食事もそこそこに、デコスタをレストランに置き去りにしたまま、本社の設計室にタクシーを飛ばした。
土曜日の夜、八時ごろだったろうか。二、三人の設計スタッフと設計室に着くなり、ロングストロークエンジンの設計検討に移った。
[写真:RN25を擦るロジャー・デコスタ。美しく力強い走りだった]
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